オ ー デ ィ オ キ ラ ー
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 第二部 カストラート 〜角魔大鷹編

 第九章 神の声



  俺は濡れた体も拭かずに等身大の鏡の前に立った。
 まるで宇宙人のように無機質な、目に痛いほど白すぎる身体には、体毛の一本もない。

 男でもなく、女でもない。

 ただ視覚的にはこの身体を誰かに見せようものなら、誰もが女だと判断する。そして一部の性の奴隷たちは、この身体に淫らな妄想をするのだろう。

 吐き気がする。
 こんなところに鏡さえなければ……。

 訳の分からぬ怒りがまたみぞおちから突き上げ、拳は鏡の中央を殴った。ひび割れた鏡が俺の身体をバラバラにした。中指から好きなだけ血が流れ、止まる頃にはこの怒りも収まるだろうか……。

 俺の居場所はどこにあるんだろう。
 そんなものがこの世界にある訳がない。
 あるとすれば俺の思い描いた音の世界。真っ白な究極の音の中……。
 そして刀の光。俺を闇から救ってくれた武士道。
 ロックという手段の反抗。


 そして部屋のドアが開いた。
「ノックぐらいしろ」
「まさか裸でいるとは思わなかったよ。俺だからよかったものを」

 スコットが壁際の黒いガウンを投げ、俺は身体にかけると腰ひもを縛った。
 どちらからともなくソファに向かい合って座った。

「一つだけ聞いていいか」
「なんだ」

「キアヌにカストラートだという事をしゃべったか」
 ため息が出た。何にウンザリしたのかも分からないため息だった。
「誰にも話してねえよ……」
 俺を女じゃないかと疑ったような目で見るときのアイツはウザい。異性に対して一番目が鋭くなる、そういう年齢だということは分かっている。それでも、ほんの一瞬でもそういう目で見られることはこの上なく腹立たしい。
 しかしキアヌ、あいつは男気があり情に厚く、純粋で正義感溢れるロックバカ。作曲とギターセンス、そして射撃には天才的なものが、確かにある。
 俺は才能で人の好き嫌いを分ける。あいつは選ばれた人間だ。

「週刊誌ではお前が女ではないかとか、ニューハーフではないかとか騒ぎ出しているからな。人間ってのは人の秘密の匂いをかぎあさるイヌみたいなもんだ。まあ何かと面倒くさい。気を付けておけよ」
「じゃあアンタも俺の部屋の合い鍵なんか持つな。
あのイヌどもの見え透いた妄想を考えただけで吐き気がする」
 スコットが今度はため息をついた。
 俺のタメ口と突っかかる態度に手を焼いているのは分かっている。
 合い鍵を俺の方にポンと投げた。

「大鷹、もう一つ聞いていいか」
「なんだ」

「後悔はしてないか」
 そんな言葉、初めてスコットから聞いた。
「一度しか答えないから、二度と聞くなよ。
 俺にとってロックは命だ。
 ハイトーンに苦しみあがいてる奴らの汚い声を聞いていると殺したくなるほど腹が立つ。もしカストラートになっていなかったら俺もああなったのかもしれないと思ったらな。
 そのことだけは、あんたが一生心配する必要はねえよ。
 感謝する事はあっても、後悔する事はない」

 スコットが前屈みになって俺の目を覗き込んだ。
 俺も同じように胸の奥を開く。
「もっとハッキリ聞きたいか? 満足してるよ。俺のシャウトは誰にも負けない。そして楽しみだ。これからこの声で腐った兵器を破壊できるのかと思うとな」
「お前は魔物だ。俺の目に狂いはなかった。いい根性だぜ。
 お前は誰よりも男だ」
 いい根性……そうだ、俺は男だ。
「そしてもうひとつの魔物、オーディオキラーの完成を祈って乾杯だ」



       *             *



 −10年前−


 風に吹かれるアウガルテン宮殿。
 オーストリア・ウィーン少年合唱団の寮だ。
 俺はただ自分の力が試したくて、父から逃げたくて、この戦場にヤマトから乗り込んだ。武士の家系に生まれたと言われる父、角魔幸雄は角魔道場の三代目師範。だが、男らしさなんてものは剣を握ったときだけで、普段は女々しいほどの純愛主義者だった。

 涼子が死んだのは俺を生んだから。

 何度聞いただろう。俺はその言葉からただ逃げ出したかった。
 自分の存在が、あってはならぬ魔物にさえ思えたからだ。
 1498年創立されたウィーン少年合唱団は1918年、オーストリア帝国の崩壊とともにオーストリア皇帝所属の聖歌隊から、元合唱団メンバーが設立メンバーとなり民間の手にゆだねられた。

 全100名余り、4つのコーラスグループからなる合唱団と全寮制学校、ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関)の最初の4年間(中学校)と音楽だけではなく、勉学においても過不足なく成り立っている。
 アウガルテン宮殿の廊下で同級生らしき五人のグループとかち合った。
 真ん中の一際背の高い金髪は、銀の鎖につながれたキラキラ光るものをクルクル回しながら威圧を掛けてきた。青い瞳も金髪も、目に痛いほどきらびやかだ。
 俺は唯一のヤマト人、同じ年齢の外国人の視線の高さはちっとむかつく。
 いかにもというワザとらしい見下した笑いは逆にありがたい。
 お前らを俺はどん底に突き落とす。オペラでもバリトンがテノールに嫉妬するように、アルトがソプラノに嫉妬しやがる。すべてのボーカリストにとって、高音とは誰もがあこがれる神の声だ。
 今はただ、鞘におさめた刀を抜く瞬間を待つだけ。
 俺の行く手をわざとらしく遮ってニヤニヤ笑う五人組。
 小学校に入る前から、空手と剣道をやっている。皮肉な話だが腕力はきれい事抜きにイジメから身を守る最高の武器だった。

 ヒマさえあればケンカした。

 味方と勘違いしてなれなれしく寄りつく奴らも殴った。
 俺は誰かと組んで誰かをイビるという奴らが一番むかつくからだ。

 こいつら五人の顔にアザを作ることは簡単だ。
 でもこのウィーンではこの拳を封印することも誓った。
 少なくとも、ここに来る奴らはみんな夢に向かって努力することを知っている。無駄に絡んでくる奴はいても腕力で訴える奴はいないはずだ。

「おい、チビのヤマト人、声を出してみなよ」
「オハヨ」
 ムッとした真ん中の金髪が肩を揺すって近付いてきた。
「そんなんじゃねえよ、そうだな、ソブラノ域の、Eの6を何秒持続できるかで勝負しようじゃないか。もちろん大きな声でな」
 真ん中の金髪アタマはクルクル回していた光るものをガシッと掴んで俺に見せつけた。ストップウォッチだ。
「いいぜ、俺は大鷹だ、角魔大鷹」
「ボクはガブリエル、ガブリエル・エーベルストだ。まあここはヤマト人が来る所じゃないってことを、教えてやるよ」
 回りの少年たちが一緒になって笑い出した。
「オメエらしゃべんな」
 俺がキレたのが分かったのか五人組が一瞬固まった。ヤマトでもキレるとガキどもはすぐにビビったものだ。声がデカくなり目つきが変わるらしい。

「表出ろよ、外でやろう」

 ガブリエルも目つきが変わった。
 その目の奥に闘志の炎が揺れている。宮殿を出ると眩い緑の大地が飛び込んだ。俺の生まれ育った北九州にはこんな色はなかった。だから逆に落ち着かない色だ。
 ガブリエルはニヤニヤ笑いながらストップウォッチを振り上げた。

「いくぜ」
 大きく息を吸って、ストップウォッチのピピッという音と共に声と声がぶつかった。
 ガブリエルの声は確かにいい響きを持っていた。
 俺は更に太い声で共鳴させると残る四人の目がピンポン球みたいになった。ガブリエルも躍起になって声を張り上げた。
 なかなかやりやがる。だが負けられない。
 もう男の意地とプライドの戦いだ。庭園が二つの声で充満した。
 背中を丸めて最後の一息まで声を絞り出す。
 そしてついに俺の声が途絶えた。
 ガブリエルの声も聞こえない。
 同じように背中を丸めたガブリエルが、俺を上目遣いに睨んだ。
 そしてニヤリと笑った顔には険が無くなっていた。
「やるじゃないか、チビ」
「お前もな」
 照れくさそうに笑ったガブリエルが手を差し出した。勝負の後は互いの健闘を称えるあたりはやっぱり同志だ。
 俺はその手をガッシリと握った。ちょっと汗ばんでいる。
「さっきの言葉は取り消すよ、お前は男だ、角魔大鷹」
「おまえもな」
 以後、彼は俺の未来で最大のライバルとなる。


 ウィーン少年合唱団は王宮で歌う以外にも世界300カ国へ音楽大使として遠征する。世界中から選りすぐられた250人、その中の100人がモーツァルト、ハイドン、シューベルト、ブルックナーという偉大な作曲家名のグループに分かれて活動する。
 俺とガブリエルはモーツァルトだ。
 そして、残る150人は予備軍として100人のレギュラーに入れるように訓練する。
 練習は厳しいが、世界観光や学業もしっかりサポートされ環境としては恵まれている。
 さらに歌う曲のジャンルもクラシックばかりではない。
 聖歌はもちろんのこと、クラシックやオーストリア民謡からポップス、ポピュラーソングまで幅広い。
 俺はある日、礼拝堂で独唱をさせられたことがある。その時の、みんなの笑いようといったらなかった。どうも俺の歌い方はロックが染みついているらしい。
 綺麗な声で歌うことを心がけられているウィン少(ウィーン少年合唱団の略)の中で、思い切りシャウトする俺の歌い方は最初は笑っていた奴らも最後には真剣に聞き入っていたりした。
「お前はロックスターになった方がいい」
 俺が独唱するたびに、サーウィン先生は言った。


 故郷のヤマトに凱旋したときは、目に馴染んだはずの灰色の街が汚く見えた。
 華々しく、世界各国で活躍する少年たち。その期間は短く、変声期直前の時期が声は最も美しい。
 十二〜十四歳でその技術は頂点に達し、それがゆえに変声期後の落胆は激しく、まるで咲き誇った花が一瞬で散るように引退していく。
 二度と返り来ぬ季節に永遠の別れをせねばならないのだから一滴の涙ぐらい置き去りにしてもいいだろう。
 だが俺は、それが惨めに思えて仕方なかった。
 練習中に急に声を詰まらせ、涙する少年を何人も見た。


 そんな九月のことだった。
 今年で十四歳になるルーベルトのメインとなるコンサートがオーストリア宮廷礼拝堂で行われた。
 彼はウィン少ナンバーワンの実力者だ。彼がソロで歌う曲が全体の半数を占める。俺たちはバックコーラスだ。
 きらびやかな宮廷内のコンサートホール。生き生きとしたルネサンス風の壁画は今にも天井から舞い降りてきそうに見える。
 国王とその側近の部下らしき人間たちが客席に座っている。

「よお、お前が噂のヤマト人か。まあ聴いておけよ。僕の声を」

 ルーベルト・バラデュール、グリーンの目とブロンズの髪、子供なのに大人の雰囲気を漂わせるキリッとした目つきの14歳だ。
 自信に満ちた目の輝きは、俺の突き刺す視線をも包み込むほど柔軟な風格さえ漂っている。
 思い切り牙を剥いた目で、にらみつけて見た。ビクともしない微笑みを返し、彼は中央の場所に歩いていった。
 俺も脇役は嫌いだが、あいつのためなら歌ってもいいか。
 サーウィン・ビルトン先生の指揮棒が振り上げられコーラスが始まった。コーラス隊の中で観衆の目は俺に集まった。一流か本物か偽物か、全てを見極める耳だけは観衆が一番持っている。その観衆が俺を見た。
 俺の声がコーラスの中で、一番際立っていたようだ。

 当然だ。俺は誰にも負けない。

 その時、ルーベルトの声が、俺をかき消した。
 声のパワーが凄まじく太くて高い。俺が声をかき消されるなんて初めてだ。ルーベルトの伸びやかな声で歌われる
『グレゴリオ聖歌:来たれ、創造者なる精霊よ』

 四年間の差が、とてつもなく、大きく聞こえた。

 凄い声だ……。聞き惚れるほど……。

 彼を超えることができるだろうか。十四歳と言えば、変声期はかなり遅い方だ。
 体で覚えた歌は、どんな事を思いめぐらしても意志とは関係なく、声となって出ていく。俺の中でひとつの目標ができた。
 ルーベルトを越える。


 そしてその三カ月後だった。もう季節は冬。
 12月21日、俺は射手座の11歳、獅子座のルーベルトに一歳だけ近付いた。
 オーストリアで迎える初めての誕生日に、サーウィン先生から銀のコップをもらった。
 そのコップに入れて飲んだココアの味は格別だった。

 そんな雪の降るアウガルテン宮殿。
 午前中に歌唱の合同練習があった。宮殿の音楽室はいつものように歌声で建物も共鳴する。サーウィン先生の指揮棒が振り降ろされた瞬間、ゴングが鳴ったボクサーのように俺は闘志を燃やして歌った。

 俺の声量が日に日に大きくなっていく。ルーベルトも声変わりが遅く、その歌唱力は俺の成長以上に、さらに磨きがかかっていた。

 いつもルーベルトを睨んだ。
 KOされても立ち上がるボクサーの気持ちだ。

 勝てないことを思い知らされて悔しい。
 いつでも、あの天に抜けるような声を睨み上げながら、ウィーンでの冬は過ぎた。雲の切れ間から覗く太陽の光を、その上の世界を届かぬ地上から睨む日々。
 俺の力が伸びても、さらに、その上から舞い降りてくるルーベルトの声に、いつしかそれは我が誇りにさえなっていた。

 イギリス、ロンドンを始め都市十カ所でのコンサートでも、ルーベルトの声は絶賛された。俺と同じ目つきで彼を睨むもう一人が、あのガブリエルだ。
 そしてフランスのパリ、ドイツ、イタリアというツアーを経て俺達は春にウィーンに帰ってきた。
 インターネットでも彼の歌う動画は数百万のアクセスを記録した。


  *                 *


 その日は、音も立てずに訪れた。
 帰国後の練習で歌唱中に咳き込みだした。
 どうしたっていうんだルーベルト。
 サーウィン先生が静かにうなずきながら、彼の肩を抱いた。
 悔し涙を流したルーベルト。
 その目は、悲しみよりも悔しさに溢れ、真っ赤になっていた。
 俺の頬まで火であぶられたように熱くなった。

「大鷹、あいつまさか」
 ガブリエルは俺の肩を叩いた。
 変声期はルーベルトにも訪れた……。
「もう年齢的にも無理ないよな、これからボクたちの時代だよ」
 ガブリエルは小声で喜んでいる。
 俺の心はグラグラに揺れた。

 ルーベルト……もうあの声は出せないのか……
 お前の声は、もう終わったのか……
 俺の声も……今だけなのか……。


 午後の授業では同じ学年ばかりになる。
 数学が終わった後、クラスメートたちは午前中の練習を思い出しては、やけにはしゃいで笑っている。ガブリエルもそいつらと一緒に、一際高く響く声で笑っていることに俺はキレた。
 とても耳障りでならない。
 確かにガブリエルも、歌唱力はズバ抜けている。
 しかし、ルーベルトに比べれば、ひよこ同然だった。

 ライバルの声の死が、そんなに嬉しいのか。

 そんなあいつに、まるで俺が笑われたような錯覚さえ起きた。
 許せねえ。
「おまえ、何笑ってんだよ」
 襟を掴んでガブリエルを睨みつけるや、その視点がぶれた。
「なな、なんだよお前、笑えよ!」
「うるせえ!」
 殴った。
 後は絡んでくる少年たちを何人殴り倒したかも、何発殴られたかも覚えていない。
 気が付けば唇から血が出ていた。
 慌てて駆けつけるサーウィン先生。
 ガブリエルは殴られたことに怒りが爆発して先生に何やら訴えている。黙って睨んでいた俺が悪者になった。
 先生から謝るように注意され、俺は頭を下げた。
 ヤマトにいたころの不良少年に戻ってしまった。殴ってカタをつけようとする俺の性格は、このウィーンでも変わっていなかった。
 それでも後悔するこの、もっと殴りたいという気持ちを抑えることの方が辛かった。
 その場の空気から、遠ざかりたかった。

 自分のライバルが一人消えたといって喜ぶのか。
 こんなの、勝ったんじゃねえ。
 これで永遠にルーベルトに勝つことは出来ないんだ。

 教室のドアを俺は叩き閉めた。
 こんな見飽きたドアでさえ防音シャッターにはなった。
 一人で歩く雪原の庭園。
 今ではあの目に一番なじんだ緑が懐かしい。カッカした頬には冷たい風も心地良い。早速、背中からザクザクと足音がついてくる。

「待てよ大鷹、ボクも悪かったよ、謝るよ」
 左肩が並んだ瞬間、俺はガブリエルを睨み付けた。
 ガブリエルはびびったような顔付きでたじろいだが、逃げなかったのが気に入った。何故か呆れ笑いが出たらガブリエルは俺の機嫌が直ったと勘違いして照れ笑いしている。
 ムカつく奴だ。
「お前らしくもない。ライバルが一人減ったんだ、喜べ!
 それがプロってもんじゃないか。ボクたちがソロで歌うチャンスが増えるんだぜ」
 やっと横に並んだガブリエルは偉そうに言う。
「お前は友情ごっこを楽しみたいのか。
 そんなんでどうする! ラッキーと思うぐらいの根性がなきゃ、この世界ではやっていけないぞ」

 俺はまたキレそうになる心を抑えて殴る前に喋った。

「お前がこだわるのは自分の場所か?
 くだらねえ、ルーベルトは天才だった。俺が初めて負けた。
 認めたよ! だからすげえ時のアイツを倒したかったんだ……
 もうできない。そしてあれは、俺たちの未来でもあるんだ!」

「お前……」
「俺はソプラノを極めたいんだ。
 誰も出せない声を出し続けたいんだ!」
「お、お前おかしいよ、狂ってるよ、そんなの不可能だ。
 大人になることを拒んでいるだけだ。いいや、男になることを拒んで、いつまでも子供のままでいたいのか」
「俺は男だ! そしてソプラノは俺の道だ!」
「じゃあカストラートにでもなるんだな! オカマみてえなカストラートによお!」
 俺は言葉を返せなかった。

 カストラートは知っていた。
 自分にとってそれは歌に命を懸けた神の声を持つ男。
 去勢歌手とも言う。
 まだ大人にならない少年のうちに去勢してしまうことで、変声期を回避する。頂点を迎えるといわれている変声期直前の最も美しいといわれるソプラノの声域を維持し、むしろ、さらに磨きをかけて、男にしか出せない声量抜群のまさに神の声を手にした男たち、それがカストラートだ。
 ファリネッリやセネジーノ、その凄まじい歌唱力は気絶者さえ出したという。何人もの観客が気絶した。今時の、機材に頼った爆音による気絶ではない。
 マイクさえもない当世、生の声を聞いて気絶したんだ。
 18世紀、一世風靡し、彼らの年収は国の首相をも越えた。

 しかし……俺は自分の体を犠牲にしたくはなかった。

 そして俺自身が、そういうものに偏見を持っていた。どんなに素晴らしい声を持っていても、男でなきゃ意味がない。
 身体はヒョロヒョロ、体毛も生えなくなり筋肉も付きにくくなる、ガブリエルの言うとおりだ。
「冗談じゃねえ、ソプラニスタになればいいだけだ」
「へへっ、ボクもそうなりてえな。
 成れるものなら成りたいよ、一緒にな」

 ガブリエルと、やっと意気投合できた。
 ソプラニスタとは、極希に成人男性でソプラノの音域を歌える歌手のことを言う。こればかりは先天的なもので、世界でも数人しかいない希少な存在だ。
「その言葉を聞いて安心したよ。俺たちが今やってることは、無駄じゃないんだよな」
「そりゃ、ソプラニスタに成れたらな。でもさ、高い声ばかりが歌じゃないぜ。お前は声が低くなることが、そんなに嫌か」
「お前も分かってるだろ、ハイトーンってのは理屈抜きにいいんだ」
 ガブリエルが反論もせずに俯いた。
「分かってるよ。いつだってそうだ。この音に、人間の耳は一番反応するんだ。パリトンがテノールを妬む。高い声が出るっていうだけでヒーロー役になるのが、気にいらないって言うもんな……」
「ソプラノを極めるために、俺はオーストリアに来たんだ。
ロック歌手が苦しそうに金切り声を出しているのを見ると腹が立ってくる。ヤマトの歌手なんて実際そういうもんだ。とても世界には通用しない奴が殆どだ」

「ヤマトの歌手がへたくそなのは知ってるよ」

 この言葉もカチンときた。
 自分でも分かっているクセに、やっぱりヤマト人がバカにされるとムカつく。まあこれは、俺が違うっていうことを見せつけていくしかないんだ。
「だいたいヤマトのミュージシャンはヤマト国内とアジアでしか売れない。でもお前はヤマト人だろ? それでいいじゃないか」
「バカにするな! 俺は世界で戦いたいんだ」
「無理だよそんなの」
 殴る構えをしたらガブリエルは条件を挙げて降参のポーズをとったから俺は拳を下ろした。
「お前は将来どんな音楽をやりたいんだ」
「ロックだ、俺が今やっているクラシックとロックを融合したような曲をやりたい」
「ボクも似たようなものかな」
 いつだって、結論の出ない会話ほど考えさせられるものはない。
 雪が、降り積もった宮殿近辺の林。絵にするなら銀か灰色か迷うほど薄暗い木々。
 その木陰から、ルーベルトが現れた。

「よお、大鷹、ガブリエル」

 とても低い声だった。
「先輩……」

 ガブリエルはペコリと一礼した。
 俺はそんな挨拶をすることも忘れ、ただじっとルーベルトの目をにらみ続けた。
「春のウィーン国立歌劇場でのオペラだけどよ、僕の代役を探すことになった」
 出しにくそうな、響きさえもない、とても低い声。
 半年ほどの期間、一緒に世界を旅して歌い続けた仲間の変わり果てた声に、俺は落胆した。
「僕の代役を、角魔大鷹……お前にやってほしいんだ」
「俺が……」
「ちょっと待ってくださいよ先輩、そんなこと順番的に無理じゃないですか……こいつチビだし、ヴィーナスとつり合いっこないし……」
 ガブリエルのその後の言葉は、耳に入らなかった。
「僕は順番とかはどうでもいいんだ。力がある奴に、僕の納得できる奴に、代役をやってほしいんだ。それだけだ。大鷹、お前の才能は先生が一番分かっている。お前なら十分やれるさ」
「先輩……有り難うございます」
 俺は一礼した。
 ガブリエルの目にはすでに妬みの炎が燃えていた。
 俺はそういう視線には敏感だし、ヤマトでも慣れっこだった。
 そんなことよりも、このルーベルトの代役を果たせるかという不安の方が、大きくなった。



 それからの三カ月間、ウィーン国立歌劇場でのオペラに向けて猛稽古が始まった。
 劇のタイトルは『神々の戦い』という比較的新しく書き直されたストーリーだがアドニス神話を元にしていてストーリーは変わっていない。俺の役割は愛と美の女神、ヴィーナスことアプロディテに愛された少年アドニスだ。
 このオペラは19世紀から20世紀にかけて
 『ヴィーナスとアドニス』
 というタイトルで世界中で人気を呼び、ニューヨークでは600回以上も公演されている。
 今回はヴィーナスを、当時トップスターの若いオペラ女優が演じることになって、ストーリー上の理由からアドニスはさらに若く歌唱力を持ち合わせていなければならないという理由でウィーン少年合唱団に白羽の矢が立った。
 ひとつだけ不可解なのは、この、アドニス役を演じた少年が、二人続けて事故で亡くなっていることだ。軍神アレスの呪いだと騒ぐ関係者もいたが、俺は迷信は気にしない。そんなもんクソくらえだ。



 アウガルテン宮殿の音楽室で、礼拝堂で、空いた時間を見計らって俺は歌った。セリフと音階を組み合わせ、ソロでの歌唱は特に、完ぺきに歌えるようになるまで歌う。ルーベルトは練習中に現れては歌い方のアドバイスをしてくれた。
 そして歌い終わった後には必ずブラックチョコレートをひとかけら割ってくれた。
 俺はそれからルーベルトと一緒に何かをやることが多くなった。
 練習風景をコソコソ見に来るガブリエルと、あの五人組にもルーベルトは笑いかけながら、一緒にやるかというが、決まって彼らは冷たく去っていった。


 所々雪が降り積もった木の上で夕陽を見ながら、熱い缶コーヒーを一緒に飲む。
「男は一生ソプラノで歌うことはできないさ。
 こればっかりは諦めるんだな。僕はこのウィーンで得たものを土台にしてオペラに進んでいきたい」
「俺はロックをやりたい。もうはるか昔の曲だけど、Deep Purpleの Child In Timeを聴いて衝撃を受けたんだ。ソプラノに近いキーのシャウトをあれだけドラマティックに乗せたメロディーはないよ」
 季節は春になり始めていた。それでもまだ冷たい風は、練習後の火照った身体を冷やすにはちょうどいい。
「先輩はカストラートに成りたいって思った事がある?」
「勿論さ。ここに来る奴らはみんな一度は思うさ。
 だけどすぐに忘れる。あれを切ってしまうなんて飼い猫みたいに惨めだし。筋肉がつきにくくなって、身長は伸びるかもしれないが若いときはみんなヒョロヒョロだったらしいぜ。髭も生えないし、女みたいになるんだってよ。
 僕には耐えられないや。
 僕はもっと自分を大切にしたいしな。
 そんな度胸はないっていうのもあるけど、まあ現代はそんなことは許されないがな」

 その言葉は俺を安心させた。なぜだろう。自分もそんなものにはならなくていいんだよと彼が言ってくれているような気がしたからだ。
 だけどそんな彼の目が、一瞬深い青みを帯びて呟いた。

「でも多くの芸術家は口をそろえて言うよ。
 カストラートの声に一番近いのはソプラニスタだろうが、それでもその神の声を忠実に再現することはできないってさ」
「凄いってこと?」
「オペラの頂点なんだよ。凄いなんてもんじゃない。僕たちをよく、天使の歌声って表現されるけどよ、カストラートは神の声なんだよ」

 俺は空を見上げた。
 神の声と聞くと空からでないと聞こえないような気がするからだ。

「サックス奏者とカストラートが街角で音の競演をする光景が中世の街角ではよくあったらしい。サックス奏者が最後には勝負を諦めてしまう。生の声が楽器に勝つんだぜ。今じゃ考えられない」
「なんかそんなふうに言われると……俺もなりたくなる」
「バカなことは考えるな。まあなろうとしたって、ヤマトの法律が許さないし、お前本来の声を生かすことの方が大切さ」
 ルーベルトはスルスルと木から下り始めた。
「おい、おまえまだここにいるのか? 風邪ひかないようにしろよ」
「うん」

 ルーベルトも一度は思ったのか……。
 どこまで、本当の部分を話してくれたのだろうか。
 あの背中はもう、大人になりはじめている。変声期が終わったら、
彼はまた歌を始めるだろう。
 テノール、バリトン、オペラ歌手は、数え切れないほどいる。
 だけど、ソプラノとしての季節は終わった。
 終わったんだ。
 俺が、夢にまで見る程あこがれた、ルーベルトのあの声は、もう、あの高い空から舞い降りてくることはないんだ……。



 その夜、俺はベッドの右手にある窓を開けたまま、ルーベルトと昇った木を眺めていた。全寮制で俺は個室だ。ルーベルトはもうこの冬が終わる頃、故郷のスウェーデンに帰る。俺の初舞台は、見に来ると言ってくれたが、やけに悲しかった。
 アドニスを俺がやることになって以来、ガブリエルとも、他の同級生とも、あまり遊ばなくなった。
 そんな中、俺の声への執着は逆にどこまでも大きくなっていく。
 日曜日、サーウィン先生は俺とクラスメート数十人をウィーン国際空港へルーベルトの見送りに連れていってくれた。成田空港を知っている俺から見れば、ラウンジはいつ見てもお粗末なものだ。
 小さなレストランでパンとスープの朝食をすませ、俺たちは、搭乗口に集まった。
 もうルーベルトは笑顔になってグリーンの目は新たなる旅立ちへの希望に満ちて、俺が悲しくなるほど輝いている。
 俺がこんなに執着している声を、そんなにもたやすく、あきらめられるのか。
 これから、新しい人生のスタートが始まる。
 ルーベルトは最後に俺の手をガッシリ握って男らしい笑顔を見せてくれた。鼻下には、産毛とヒゲの中間のような褐色の毛が目立って生えている。
「頑張れよ」
 その一言で涙が溢れた。最大のライバルよさらば。
 俺は一人、空港の屋上まで行って、飛び立つ旅客機が空に溶けていくまで見送った。
 ルーベルトは故郷のスウェーデンに帰った。
 さらば、ソプラノという限られた季節を燃えて生きたルーベルト。



 一人になっての礼拝堂での練習。

 サーウィン先生は、自由時間をここで練習することを許してくれた。
 これはルーベルトがフォローしてくれていたからこそ出来たことだ。
 ルーベルトの厳しさと優しさのあふれた指導を思い出す。
 彼のコーラスで入り俺は歌っていたが、今はたった一人だ。
 やはり練習の勝手が悪い。寂しいなんて思いたくない。
 絶対に彼の代役を、完ぺきにこなすんだ。
 俺が息を吸い込んだとき、ドアが開いて白い光が礼拝堂を縦に割った。

 ルーベルトより一回り小さな影……

 それは、あのガブリエルだ。
「よお、ボクがコーラス入るよ」

 俺とガブリエルの間にあった氷壁を、その光が消した。
 有り難うという言葉が薄っぺらくて言えない俺は、舞台道具の剣を取ると立回りをして見せた。ガブリエルのコーラスに乗って剣を更に激しく振る。それでもう、意気投合が出来た。そして、全身のパワーをためて、ゆっくり息を吸い込み、のどをリラックスさせた状態で歌に入った。
 息で歌う、ブレスボイスだ。
 ガブリエルの目が丸くなっている。
 三分間のソロ。ガブリエルが途中で咳き込みだした。
 俺は最後まで歌いきった。そして静けさが訪れる。

「おまえ……凄いぜ。ルーベルト先輩が認めただけの事はあるよ」
 ガブリエルの青い瞳は、俺への友情と、練習を終えた後の充実感に輝いていた。



 次の日の練習ではコーラスの人数が増えていた。
 ガブリエルが声かけしてくれた事はすぐにわかった。
 初めて会ったとき、彼の回りにたむろしていた五人組だ。
「早くしろよ、もう本番まであと一週間だぞ。
ウィン少の実力を大人たちに見せつけてやろうぜ!」
 ガブリエルが火をつけて、みんなの心が一つに燃え上がった。
 一匹狼の俺と違って、彼にはみんなをまとめる力がある。
 ガブリエル、いいヤツだ。



 そして次の日、ウィーン国立劇場で初めての合同リハーサルがあった。

 舞台そでの暗がりに揺らめく衣装。
 陰から陽へ。平坦な床の色だが、その陰から光へ立つ道のりは険しい。そんな舞台に大人のオペラ歌手たちが次々と入場する。

 アフロディテ役のソプラノ歌手でトップスター、カルリーネ・オークレールが登場したときは、神々しく研ぎ澄まされた緊迫感が漂った。
 ビリビリと痺れるような、真剣勝負の間合いにも似たオーラ。
 それは男同士の戦いだけではなく、彼女のような一流スターは持ち合わせているんだということを俺は知った。
 魅惑的な大人の女性。琥珀色の髪、蒼い瞳。
 目鼻立ちはクッキリとした顔立ちで、目の輝きは太陽みたいだ。
 ドイツ人だけあって長身だ。ヤマト女性の長身と違い、痩せすぎてアンバランスじゃない。胸とヒップラインが大きく腰が細い。
 グラマーという言葉が当てはまるんだろうか。
 身体のバランスがとても美しく見栄えがする。
 俺たちとは胸郭と腰回りも違う。しかしそんなものより、風格が違う。初めて女性を美しいと思った。
 その艶やかなツツジ色の唇が開き、声が発せられた瞬間、耳がその魔力に溶けた。

 なんて優雅に響くんだ。
 なんて柔らかいんだ。なんて、甘く哀しいんだ……。
 カルリーネ……

 小さな声でもはっきりと聞こえる。
 もう、ただその声に俺は……震えるしかなかった。
 感動するしかなかった。
 同じソプラノでも俺より、いや、あのルーベルトより更に声が大きく持続力がある。ボーイソプラノの弱点といわれる、体力的な息の長さと持久力が、大人の女性ソプラノ歌手は完璧にクリアされている。
 女に負けた悔しさがムラムラと胸を突き上げた。
 たとえ大人でも、相手は女。
 しかし認めるしかない実力の差は俺を素直にさせた。

 カルリーネ……確かにあんたは声のプロフェッショナルだ。
 ベルカント唱法を見事に歌い上げている。歌うときの姿勢や支えにぶれがねえ。伸びやかに、こまやかな表現力まで隙がねえ。
 この劇場を隅々まで自分の声で包み込んでいる。

 あんたは、凄い。

 背中を突き飛ばされた。
「大鷹、何やってんだよ! 出番だ!」
 ガブリエルの声だ。
 慌てて剣を持ち、俺はステージの中央まで走ると剣を落とした。
 笑い声が俺を包む。
 射殺すような鋭い視線が体中に突き刺さった。やっぱりガキはダメだなと言うあきれ顔の大人の視線が一番痛い。その痛みで俺はやっと正気を取り戻した。
 落とした剣を取ると、再び作られた獣に斬りかかる。
 狩りが終わった。
 そして歌が始る。
 自分の声が明らかにカルリーネと比べて小さく細いことが分かる。
 そして更に、声が硬くうわずってきた。
 のどが締め付けられるように苦しい。俺は大きく体を動かして剣を振るってみた。少しだけのどの力が抜けてきた。そしてコーラスが応援するように一緒に歌い出し、合唱団の声が劇場を覆い尽くした。

 怒り任せに剣を振りながら歌うことで、より野性的な歌声になった。
 カルリーネがどのくらい巧かろうと、自分のベストを尽くすしかねえ。剣を振り回しながら、ようやくそんな簡単な答えにたどりついた。
 エイ、ヤーの斬り掛かり、掛け声にも似た普段とは全く違う立回りに大人達の目が変わってきた。
 おかしそうに笑う大人もいれば、真剣に見入っている大人もいる。
 狩りの場面が終わった後、次のシーンでは一転して静かな曲を歌わねばならない。
 その曲は「オンブラ・マイ・フ」

 歌が終わった後、見物人の一人から拍手を受けた。
 ペルセポネ役のアルト歌手が登場し、再び歌い始めいた。
 俺は再び圧倒された。
 アドニスの父、フェニキアの王キニュラス役の男性オペラ歌手が再び歌い始めた。その声は大きく太いが、ソプラノほど耳に残らなかった。
 俺の耳は、ソプラノにしか感動しない。
 一流同志が歌えば、低い声は必ずと言っていいほど高い声に消されるからだ。

 劇が終わった後、アフロディテ役のカルリーネが俺の方に歩いてきた。
「あなた、なかなか素質があるわ。久しぶりに私を感動させてくれた
『オンブラ・マイ・フ』だったわ。よければ私とお話しない?」
 思いもよらぬ天の女神からの言葉に俺は返事もできず、ただ、その目を見つめた。
「サーウィン先生。この子と今からお食事しながらお話したいんだけどいいかしら?
 ちゃんと門限には寮にお返ししますわ」
「ああ、いいですよ。合唱団一のワルガキなんでちょっとしつけてやって下さい」

 俺の返事も待たずに、2人で物事を決めてしまった。俺はこういうとき自分をガキだと思う。なすがままに大人についていくしかできない。しかし、何かオペラに関することを聞く大チャンスだ。
 それに美味しいものをご馳走して貰えそうな雰囲気ぐらいはすぐにわかる。ようやく現実が飲み込め、フツフツと喜びが沸いてきた。
 厳かな劇場を出たら黒い高級車が待ちかまえている。
 リムジンかな?
 カルリーネは道路側に回り、お供の人らしき人物がドアを開け後部座席に乗った。
 お供はすぐに俺を後部座席に乗るよう指示し、ドアも開けてくれた。俺が乗ってお辞儀をすると、そのおじさんはニッコリ笑ってドアを閉め、軽やかなフットワークで運転席に乗った。

 カルリーネはとても偉い人なんだな。
 自分よりも年上の男たちをアゴで使っているのに威張っているようには見えない、不思議な大人の世界を見た。
 舞台とは違った緊張をした。自分まで大人になったような気分で、ご馳走なんてもう入らないぐらい好奇心一杯だ。
 車が発車すると俺の背中が座席のシートにしなった。
 カルリーネは座席に最初からゆったりと身体を預けている。
 俺の方に顔を向けニコリと笑った。
 彼女と同じように、肩の力を抜いて座席にもたれ掛かったら少し落ち着いた。
 俺の人生で、初めて女性を意識した瞬間だった。琥珀色の髪を間近に見たときは、その光沢に驚いた。
 綺麗な飾り物みたいに光っている。
「あの神話は子供には難しいわよね。女心の嫉妬の部分が分かるかしら」
「わかんないです」
「そうよね、ルーベルトはまだ背も高かったからアドニスを演じても違和感ないと思っていたけど、ソプラノが出なくなったのなら仕方ないわね。あなたは何歳?」
「11歳です」
「ホントに……!?」
 カルリーネは目を丸くしたまま首を左右に振った。
「信じられない。ホントに11歳?」
「俺チビだから、もっと子供だと思ってましたか」
「そうじゃないのよ。代役っていうからルーベルトと同じぐらいと思っていたわ……
 驚きね、11歳でこれだけの声が出せるなんて、あなたぐらいの年頃の3年間って、とても大きいものなのよ。凄いわ」
「凄くなんかないよ。俺は、あなたの声を聴いてビックリした。ルーベルト先輩よりも凄い声をしてた。あの劇場一帯にマイクなしであんなに大きく響くなんて」
「あたしは大人よ。あなた達とは開きがあって当然よ」
「でも凄いよ。ヤマトの歌手なんてマイクに口をくっつけてるのしか見た事無いから」
「オペラは発声法がちがうわ。昔はマイクなんてないから、当然肉声だけで楽器に消されないような声で歌わないといけない。声量が違うのも当然よ」

 車は路地裏へとターンした。ウィーン市街はあまり来る事もないから、建物の一つ一つが謎めいて、そして大人びて見えた。車は駐車場に止まった。
 カルリーネはさっさと車から降りるとレストランへ入っていった。
おじさんがドアを開けてくれた。俺は一礼すると彼女に付いていった。
 向き合って二人きりで食事をする。
 おじさんは向こうの席で一人座って先にボーイを呼び、料理を頼んでいる。カルリーネは俺にメニューを開いて見せてくれた。
「何がいい? おねえさんのおごりよ」
「えっと……これ」
「ヴィーナー・シュニュツェルね。どういうのか知ってるの」
「はい、ウィーン風カツレツってルーベルト先輩に聞いたけど、まだ食べたことないんです」
「あら、そうだったの。名物料理よ、いい機会だわ」
 俺の好奇心は、料理と彼女に半々に分けられた。ずっと食べてみたかった。
「あなたの歌だけど、アリアのオンブラ・マイ・フ……ハッキリ言って50点かしら」
 その言葉に、頭の中にあったカツレツが吹っ飛んだ。
「50点……」
「ガッカリしないでね、ルーベルトが歌ってもせいぜい60点よ」
「あなたが歌ったら」
 また俺の目つきが変わったようだ。彼女の表情が、一瞬恐怖を抱いた子供の目になった。しばらく彼女は、俺の目をじっと見つめ返していた。そして、ため息とともに言葉を漏らした。
「何て恐い目をしているの……素敵な目ね」
「あなたが歌えば100点なんですか」
「私が歌ってもせいぜい80点かしら。ソプラニスタが歌ったら90点?
 いいえ、ソプラニスタだからといって上手いとは限らないわ」
「じゃあオンブラ・マイ・フを歌いこなせる人はいないんですか」
「カストラートよ。オペラの頂点はカストラートであることに変わりはないわ。モーツァルトも、ハイドンも歴史に残る大作曲家たちはみんなカストラートのための曲をこぞって書いたわ。その声に人々は狂乱した。芸術は狂気だわ……」
 俺の心はルーベルトと話した木の上に引き戻された。カストラートへの憧れが凄まじく燃え上がった。
 このカルリーネまでもがそんな事を言うなんて。逆恨みとも、妬みともつかない思いをカストラートという存在に抱いた。
「今は人道的理由でそんなこと不可能だけどね。フフ、男の人はエッチだからそこまでしちゃ可愛そうよね。大人になってからみんな後悔するのよ」
 白いテーブルを呆然と見ていたら、注文した肉料理が目の前に飛び込んだ。腹も減ってきた俺はフォークで真ん中の切れ端をガブリと頬張った。肉汁が口いっぱいに広がった瞬間、それまで消えかかっていた闘志が一気に爆発して口から言葉がでた。
「俺、100点取るよ」
 説明できない怒りを腹の奥に燃やしながら、サファイアの瞳を、じっと見つめた。
 誰かと視線を合わす度、いつも逸らされている視線を、じっと、受け止めてくれる深く青いサファイアは俺を素直にさせた。
「神に挑戦するってこと」
「負けたくないだけだよ……」
「あら、私だってカストラートには負けないわ。もっともっと練習が必要ってことね、お互いに」





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