オ ー デ ィ オ キ ラ ー
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 第二部 カストラート 〜角魔大鷹編

 第十三章 歌に捧げた命




 二つ目の祖国、ウィーンの街はその日、空しい曇り空で俺を出迎えてくれた。
 アウガルテン宮殿の入り口から駆け足でサーウィン先生が俺を抱きしめた。
「見違えるほど大きくなったな、大鷹……よく来てくれた」
「先生……みんなは」
「そうだな、誰から話そうか。ルーベルトはテノールのトップスターだ。ガブリエルは今、奇跡のソプラニスタとしてオペラで大活躍しているぞ!」
「ソプラニスタ……」
 俺の胸を衝撃波が突き抜けた。世界でも5本の指にも満たない奇跡をガブリエルが勝ち取ったというのか。
 ソプラニスタとして活躍しているだと……
 ふざけるな……!
 俺は何のためにカストラートになったんだ……。
 ……許せねえ、ぶっ殺す。


 今までに一度だって、他人の才能を妬んだ事はない。
 だが今だけは妬ましい。
 俺だってなれたかもしれない。

 それこそ数万分の一の確率かもしれないが。

 握り締めたこぶしが震えた。
 サーウィン先生にこんな感情を見抜かれたかも知れないと思うほど、俺の理屈無き怒りと動揺は理性で抑えきれず頬は紅潮し唇は震えた。逆に先生は見ないふりをしたのか、見えていなかったのか話のチャンネルを切り替えた。

「私もお前に聞きたかった。ケビンとはもう七年も会っていない。あれ以来だ。お前は何か知っているのか」
 唐突な、そして肝心な話に俺の体温は無理矢理戻された。

「ケビン……ケビンは、無事です」
「そうか、それならよかった……お前何か知っているのか」
「会ってはいません。噂を聞きました」
「そうか、それならいいが。お前たち二人に何か起こったんじゃないかと、ずっと心配していたよ。まあいい、お前が生きていて本当によかった」

 その顔は巨大な闇の権力におびえていた。やけに視線が揺れている。面倒なことにはかかわりたくない、そんな思いもあって当然だと俺は理解できた。

「カルリーネは、元気ですか」
「カルリーネは一カ月前に事故にあったらしい。今は車イス生活だ」
「車イス……」
 俺の前途を闇が包んだ。
 六年ぶりに訪れたウィーンに待ち受けていたものは、巻き戻したい現実だった。


  *                 *


 カルリーネの入院するウィーン総合病院。

 白い建物が初めて恐怖の象徴になった。
 一歩、また一歩、俺は前進する。

 カルリーネに逢うのが恐い。

 車椅子になった彼女に平然とした態度で会えるだろうか。
 芸術に身を捧げた……たった一つ、それだけが二人の交差点。

 ナースステーションで冷たい笑顔の看護婦が507号室と教えてくれた。
 つなぎの革ジャンに黒いブーツは看護婦達の冷たい視線を集めた。
 静かな廊下で、ヤケに響く俺の足音は秒針にも似て空しさを駆り立てた。
 501、502、部屋番号までもが秒読みのように増えていく。

 叫声と共に、ものが割れる音がした。その音が、507号室を教えてくれた。
 扉が開き、若い男が青白い顔で震えながら出て行った。
 俺の足が止まった。その時向こうから声がした。

「ヨアヒム、ヨアヒムなの……? 言ったはずよ。戻ってこないで!
 私は才能のある男しか愛さないって言ったはずよ!」

 ヨアヒムがさっきの男か。しつこく付きまとってカルリーネの機嫌を損ねたか。
 思いきり、閉じかかったドアを開いた。

 カルリーネの顔が、俺の目に飛び込んだ。

 スポットライトを当てたように鮮やかだった。サファイヤの瞳はあの頃と少しも変わらぬ光を撒き散らし、ピンクの唇は震えている。

「大鷹……あなたは大鷹なの?」
「そうだ」

 カルリーネは手を差し伸べ、俺はその手を取った。彼女はヴィーナスが乗り移ったような強い力で引き寄せ、覆い被さった俺を強く抱きしめた。
 大好きな人形を与えられた女の子がいつまでも抱き締めて離さないような、戦場から帰ってきた我が子を抱きしめる母の手のような、そんな二つのぬくもりが背中に伝わった。

「大鷹……もうずっと逢えないと思っていた」
「黙ってヤマトに帰って済まない……」
「私の方こそ、あなたに大人げない態度で、接してしまった……」
「まさか夜を一緒にしたことか……バカ言うなよ。俺は嬉しかった。男として。
 それが原因で、ヤマトに帰ったんじゃねえ……」

 カルリーネはやっと俺の背中を離してくれた。
 そして俺の頬を挟み、その手を、うなじからのどに滑らせた。

「喉仏が、ない……」

 俺は頷いた。
「バカね……そこまでして……やっぱりあなたは芸術を選んだのね……」
 俺の体を、隅々までなで回す手は、逢えなかった六年間を探っていた。
 カストラートになったことを誰よりも早く見抜いた。

「性転換した。ヤマトの法律をすり抜けるには、ガキの俺にはこうするしかなかった」
「腕の筋肉は男だわ……凄い固い筋肉ね……バカ……」

 カルリーネは涙を浮かべたまま再び俺の背中に手を回した。俺がその手を彼女の背中に回した時、彼女の手がダラリと落ちた。
「カルリーネ……」


 カルリーネは不治の病だと主治医から知らされた。車椅子になったのも事故ではなく病から来たものだということも。
 余命あとわずかと知ってからも彼女はソプラノ歌手として、舞台を続けたことも病気の進行を早めたとも。座ったままでも中世期の膨らんだドレスなら立っているように見せられるとカルリーネは笑って話した。
 車椅子でもいいと思った。

 どんな姿になっても、生きてさえいてくれたら……。

 重なり合う部分を確かめ合って、六年間の空白を埋めたかった。もはや自分のことを誰よりも理解しているのは、彼女しかいなかった。
 カルリーネは延命治療を拒否してウィーンの森にある別荘に移り、俺はそこに住んだ。


「立てるのか……」
「ええ、調子のいい日は全然平気よ」
 車椅子のブレーキをかけ、スクッと立ち上がるや、俺の腰に腕を回しヒョイと抱き上げた。
「バカヤロウ、下ろせ。もうガキじゃねえんだ」
「じゃあ、あなたも病人扱いしないでね」
 笑って彼女は俺を下ろした。

 ウィーンの森と弾ける朝陽、そしてカルリーネの微笑み。
「あまり医者の言うことは聞かないようにしているの。大きくなったわね、大鷹」
「もうカルリーネと同じぐらいにはなったかな」
「ねえ覚えてる? 彼氏はカルリーネより背は高かったってあなた聞いたの」
「覚えてるよ、俺には大問題だったからな」
 あのカルリーネとの日々に俺だけが変わって戻ってきた錯覚を起こさせた。それも夕方までだった。二人で湖にボートをこぎ出した矢先、眠るように意識を失い、目を覚ましたのは次の日の朝だった。



 その日、招かざる客は来た。
 黒いタキシードを着た目つきの鋭い中年男、蒼いドレスを着た女の顔は、一目でそれが誰の母親か分かるほど娘と似ていた。
 カルリーネの母だ。涼しい目元と琥珀色の髪。
 二人はカルリーネの部屋に入るや僅か数分で出てきた。

「あの子にはやりたいようにやらせてきた。お金もかけたよ。財産は全て私たちに入るように手続きを取るつもりだ。君は何だね? カルリーネの恋人か」
 ノドに怒りが詰まった。
「カクマ・ダイオウ君だね。七年ぶりにウィーンに現れたのは何故だね。まあ、あの子を看てくれているようだね。御礼はしたいと思っている」

 この男の言いたいことが分かった。
 そしてカルリーネの家庭環境も。
 カルリーネが我が儘で言い出したらきかないことは知っている。そりゃあデビューするまではお金もかかっただろう。あんたらには、財産を受け取る権利はある……。

 だけど……それだけかよ。
 たったそれだけでいいのかよ……。

 お前たちの目は、狩りを成功した肉食獣がスカベンジャーに出くわした時の威嚇だ。
 お前たちにとってカルリーネはその程度の存在だったのか……。

「金なんかいらねえよ」
 その言葉で男がいきなり微笑んだ。
「そうはいかないよ。娘も君のことをとても頼りにしている。私たちの親心として、少しでもお金を受け取ってくれないか」

「もう娘さんとは話すことがないんですか」

 頬から首筋まで、逆上して焼かれるほど熱くなった。
「話しは終わったよ、何だ、まさか自分の取り分が少ないとでも言う気かね」

「あんたら、金にしか興味のない人間に、俺の気持ちは分からねえ」

 カルリーネが家の事は一度も話さなかった理由が、このとき分かった。俺もこんな奴らとは、これ以上、話もしたくない。
 俺が二人を通り過ぎたとき、
「君に私たちの苦労がわかるか。私は四人の娘を育てた。カルリーネ一人のために私たち家族が、どれだけ犠牲を被ったか分かるか。確かにカルリーネは努力した。才能があったから私たちも協力した!
 カルリーネは姉や妹たちを押しのけてわが家の財産も食いつぶした。芸術は狂気だ! 修復出来ない家族関係を作ってくれたよ」
「カルリーネはお二人に感謝しているはずだ。彼女の才能だけを愛して、いや利用してでも自分を育ててくれたお二人に……」
 俺はその言葉をおいて二人を横切った。
 才能で人を愛するという彼女のクセも、この二人の両親から来たんだ。



 その夜、カルリーネは俺に添い寝してと言った。
 あのころと変わらぬ美しさ、病んでいくほど人肌が恋しくなることを、父を看取った俺は知っている。カルリーネはシルクの布団に俺を招き、服を脱いでと言った。

 分かっていた。
 すぐにも俺を裸にして抱き合いたい思いを、ずっと押さえてきたんだということも。その思いを吹き消すほど、彼女が穏やかではないことも。
 もう昔の身体ではないという俺に、構わないと言った。
 ベッドに横たわっても自分からは脱ぐことが出来ず、母に衣服を脱がされる子供のようにカルリーネに脱がされ、抱きしめられた。

 分かってる。
 男と女が愛を燃え上がらせる最高の儀式がセックスなんだってことぐらい。

 だが俺の身体はもう、男ではない。

 それでも構わないというカルリーネに、深い愛を感じた。その手と唇は、俺の肌を滑る事で六年間の空白を埋め、存在を確かめているようだった。
 無邪気な子供が与えられた人形を離さないように。

 ヴィーナスがアドニスと入れ替わった……
 結局この恋は結ばれぬさだめだったのか……

 俺が生涯でたった一人、愛したカルリーネ。芸術に共鳴し重なり合った心はもう、離脱しようとしても復元出来ない。
 カルリーネの身体は、六年前と全く変っていなかった。アンタを痛がらせた乳飲み子は大人になって、今はアンタを抱くために帰ってきたんだ。

「ねえ、感じる?」
 あまりにも無邪気に問いかけるカルリーネ。
「分からねえよ、カストラートになってからセックスは人生から捨てた」
「そんなの寂しすぎるわ。大丈夫、私が感じさせてあげる」
「やめろって」
 キスで唇をふさがれた。
 後はされるがまま、カルリーネの意志と力に押さえられ、身をゆだねた。
 股間に頬を埋められ、俺の意志は宙を舞った。
 初めての夜、いやそれ以上だ。

 愛してる……カルリーネ。

 人生から削除したはずの性、そして身体から押し寄せる官能は、カルリーネにだけ過剰なほどに反応した。

 あり得ねえ……。
 ウソだろう、狂いそうに感じる……。
 捨てたはずなのに……。

 狂おしいほどに、カルリーネは俺の身体を全て知り尽くすまで求め、意志を無視して出てしまうあえぎ声に反応して、激しくベッドの女神を演じた。カルリーネはあの六年前以上に感じさせてくれた。

 嫌じゃなかったよ……。俺の中で切り離していたことを、あんたは蘇らせた。
 壊れそうなくらい、この身体でも感じる事が出来たよ。
 嘘みたいだ……。
 あんたの前では、俺はいつもガキのまんまだ……。



 激しく燃え上がった後に訪れた静粛。

 彼女が、蒼い闇の中でつぶやいた。
 それは、あのガブリエルと決着を付けて欲しいと。
「ガブリエルの声は凄いわ……。才能もある。この私が認めたほどよ……。
 声量もある。そして負けず嫌い……」
 初めてあったとき、ストップウォッチをクルクル回しながらやってきた鋭い目を思い出した。
 ソプラニスタ、身体にメスを入れていないアイツならカルリーネと何不自由なくセックス出来る。才能もある。なのになぜ、行く宛もしれず消えた俺を待っていてくれたっていうのか。そんな思いがよぎったとき、カルリーネがつぶやいた。

「でも、好きには成れなかった。才能で人を愛してきた私が……」
「あいつに……告白されたのか」
 カルリーネは答えなかったが俺には容易に想像出来た。オペラのトップスター同志なら接点はいくらでもある。少年時代、ガブリエルのカルリーネに対する憧れの眼差しが俺の脳裏に鮮やかに蘇った。
 あいつもずっと、カルリーネが好きだった。
「才能であなたを愛したんじゃなかったのよ……才能だけじゃ」
 俺はカルリーネを抱きしめた。重なり合ったのは身体だけじゃない。
 ずっと、俺たちは勘違いしていた。
 才能じゃあない、重なり合う生き方に俺たちは惹かれたんだ。
「あなたなら勝てるわ」
「あいつがソプラニスタになったと聞いたときから俺の中で戦いは始まっていた。絶対に負ける訳にはいかねえ。勝つ」


 奇跡の朝、瞼を開けるとカルリーネは立って歩いて見せた。ベッドから飛び起きた俺に微笑みかけると、抱き付いて俺を押し倒した。
 その笑い声は女神というよりも少女と言った方がいい。
 憂鬱な瞳で頭を抑え、それでも俺と視線が合うとその脳に潜む病魔を隠し通し、微笑んで抱きしめてくれた。
 誘うのは日々のふとした場面から、背後から、そして正面から、いつも彼女の方から脱がされ、キスのシャワーを身体中に浴びた。俺のこれからの人生を誰よりも心配していた事は分かった。

 大鷹……あなたは孤独じゃない。
 きっとあなたを愛する女性が現れるわ……。
 私が死んでも誰かを愛して……。

 そんな言葉、一番聞きたくなかった俺はその唇を塞いだ。

 そしてカルリーネとの永遠に戻らない、熱く甘く激しい七日間は終わった。それは俺の性への喜びにもピリオドを打った。

 カルリーネにしか感じない。
 もう、誰も愛せない……誰も愛したくない……。
 それは俺の心が男だから。
 カルリーネは例え少年期でも俺を男として愛したから今の俺を受け入れた。
 その記憶が絆としてあるから俺は受け入れられた。流れていく時間が復元できないように俺の心はもう、他の女を受け入れられない。

 もう、愛はいらない。
 芸術、そしてロック一筋に生きるには丁度いい。
 そして俺は誰にも負けない……。






 ガブリエルの写真を、このウィーンの街角でも喫茶でも見た。
 超一流の技術と、後はちっと顔が良ければ売れる。その高貴な微笑に、少年時代の面影はない。このウィーン全体がガブリエルの領土だ。風に乗ってその歌声が聞こえてくる。時にはラジオから、時にはテレビから。
 その歌声は、この俺をも頷かせた。力もある、伸びもある見事なソプラノだ。
 夜の酒場でガブリエルが歌うクラシック音楽を聴くときは、敵国に潜り込んだスパイの心境にも似て孤独の闘志を駆り立てられた。

 朝も昼も夜も、ガブリエルによってウィーンの街は回る。

 ウィーン国立歌劇場では、ヨーロッパ全土で人気のある『アレキサンダー大王』のオペラ公演が決まり、アレクサンドロス3世役の公開オーディションが行われた。
 あのガブリエルが既に内定していたが、なおかつ念入りな役柄選びを念頭に置いてのオーディションだ。
 これはロックバンドでもよく見られる。すでに内定していても、さらに優れた人材を集め、またその中で勝ち抜いてこそ内定された者も価値を認められる。
 そんなガブリエルの実力確認を指針としたオーディションに俺は殴り込んだ。
 テープ審査で合格した300人の中で、最終オーディションに20人が厳選され、ウィーン国立歌劇場舞台で戦う。
 オペラを志してオーストリアとヨーロッパ諸国から選び抜かれた20人が広めの楽屋にぶつかりあった。みな、それぞれに自分が一番と信じた目で、他の歌手と冗談を言ったり互いの歌唱力を褒め合ったりしている。
 主人公のアレキンダーを意識した衣装を着ている奴もいれば、タキシード姿やラフなジーパンスタイルまで様々だ。俺の繋ぎ革ジャンのライダース、二本のベルトはやたらと視線を集めた。
「おいおい、あんたはどう見てもロックスター風だな。ビジュアル系バンドの募集と間違えて来たんじゃないのかい?」
 その声にトゲはなく、三十代の目には親近感があって何故か俺を笑わせた。
「目指すところはそこだが、今日は腕試しで殴り込んだ」
「とても良い目をしているよ、あのガブリエルといい勝負が出来るかもな。私はアランだ。よろしくな」
「角魔大鷹だ。互いに頑張ろう」
 どちらからともなく、握手をした。ウィン少でもそうだったが、ここに来る奴らは皆、夢という太い大木が心に生えているから話はしやすい。
 ガブリエルは個別の楽屋に招待されている。エントリーナンバーに合わせて、一人また一人とこの楽屋を出てはまた帰ってくる。
 俺は最後の二十番だ。楽屋のモニターでは舞台が見られる。
 そして、十七番目のカウンターテナーが歌い始めると同時に、俺は名前を呼ばれた。
 出陣の時は来た。少年時代のライバルと、再度戦うために。
楽屋から舞台そでへ向かう通路で視線がぶつかった。
「大鷹……」
 少年の面影を多分に残していた俺の顔は、彼もすぐにわかったようだ。
 だがガブリエルは別人のように体格もでかく、顔の形も全然違う。ガブリエルの顔付きが代わり、鋭くなった蒼い目は俺の全身をジロジロ視察した。俺が一番過敏にいやがったあの視線で。
「どういうことだ。まるでカストラートみたいにナヨナヨした身体だな。のど仏もない。俺の目はごまかせないぞ、大鷹」
「まるで俺がカストラートだと断定してるみたいだな」
 再会も俺たちらしい、似合いの火花が散った。
 少年時代の純粋な気持ちで、友達として続きを始めることは出来なくなっていた。そしてやつ自身も思春期に、その声を失いたくないという思いに呪われたに違いない。
 だからあんなセリフが出たんだ。
 分かりやすいところは変わらない。
 だが人は色がつくほど、他の色を拒絶する。白紙に近い色だった頃は友達でいられても、今は二人の行く道が、あまりにも違う色だった。
「カストラートはオペラ界唯一の汚点だ。
 あの頃はガキだった、でも今はよくわかるよ。不道徳な歴史がな。
 人間の性を無視したものはもはや芸術ではない。僕は身体にメスを入れずにソプラニスタになった。つまり神は俺を選んだ。カストラートって名前を聞くだけでイラつくんだよ。今の僕はな」
 ガブリエルが俺を見る目、それ自体が奴のカストラートへ執着した青春時代の鏡になった。そう、お前の中でも悩みがあったんだな。ソプラノがお前の道として、確立していく中で、お前も変声期に怯えながら成長した。
 お前は運がよかった。それだけだ。
「絶対にお前はカストラートになると思っていたよ。ガキの頃から異常な執着心とコダワリを持っていたからな。おまえが間違っていたことを証明してやる。神に選ばれた俺が誰にも負ける訳がない。いや、負けてはならないんだ」
 俺は笑ってガブリエルを睨んでやった。
「相変わらずだな、その向こう気の強さは」
 すれ違い様、俺はガブリエルの手首をガッシリ握った。ガブリエルはムキになって腕を振りほどこうとするが俺は挑発しながら抑えつけた。
「狂気の歴史も、正しいも間違いも関係ねえ。あるものは究極の音、それだけだ」
「究極の音……」
 ガブリエルの抗う腕を投げ捨てると、俺は赤と黒のカーテンがなびく舞台裏の楽屋へ歩いていった。背中を向けても、ヤツの悔しそうな顔が見えた。


 カストラートのために書かれた曲はオペラ界に腐るほどある中、オンブラ・マイ・フが選ばれた。この歌を歌いこなせるものはカウンターテナーたちの、ファルセット唱法〈裏声による)がほとんどだ。そして主人公がアレキサンダー大王ということで、前回俺が演じたアドニス以上に立ち回りは重要視された。
 マケドニアの王アレキサンダーは自ら軍の先頭に立って、敵兵と斬り合った。故に戦闘では、生傷がたえなかったという。ヤマトで山にこもり剣を磨いた俺にしか、本物のアレキサンダーは演じられない。
 鞘に収めた刀を抜く時を待つ。
 実戦と演技とは全く違う。演技ではアクションを大きく、無駄な動きをしなければならないが実戦では逆だ。そのあたりは、前回のアドニスで経験ずみだ。思い切りオーバーなリアクションで暴れてみるか。
 最前列の審査員たちは、カウンターテナーたちの声にうなずいたり、首をひねったりしながらも最後は納得した顔をしている。歌は一応のレベルを歌えても、立ち回りがぎこちなかったり、その逆もいた。
 どの声も細く無理があるようにしか聞こえない。そしてこんな声を聴き慣れている現代人の耳も、俺の声を受け入れてくれるだろうか。

 アレキサンダー大王候補最有力のガブリエルが現れた。
 まずは立ち回りが披露される。
 今までに現れた候補の中で、一番軽やかでダイナミックな動きをしていた。相当訓練していないと出来ない剣裁きだ。目つきは一流の落ち着きと風格さえある。
 早熟だった俺よりゆっくり育った身体は今、最高潮になっている。見事だ。
 そして歌が始まる。
 ソプラニスタ、ガブリエルの声は高くて太い。審査員たちの目が見開いている。感激のあまりに、涙する者もいた。
 不可能を可能にした歌唱力はズバ抜けていた。
 この俺でさえ、鳥肌の立つ歌唱力だった。
 その歌うときの顔に、7年前の顔が浮かんだ。技術は見違えるほど進歩していたことだけが、やけに嬉しかった。

 お前もヴォーカリストという宿命を背負ってきたのか。

 そして二十人目、俺の名前が呼ばれた。
 使い慣れた剣で宙高く舞い上がり大きく振り下ろす。ステージ上からは、舞台は闇にしか見えない。剣の演技に対する拍手は、どうやら俺が1番大きいようだ。感嘆の声がわき上がったまま、ついに六年間の沈黙を破るときがきた。
 俺は歌う。
 静かな始まり、ここでは表現の細やかさが求められる。
 真っ暗な観客席に浮かび上がる幻像は、俺が、崖の上から見下ろすあの大自然の夜景だった。そして曲が最も盛り上がる高音では思い切り声を張り上げた。
声で身体全体が振動する。思うがままに我が思いを歌う。信じたままの声で歌い終わり、一礼したときに、ようやく審査員の顔が見えた。どの目も敵意むき出しで俺をにらみ据えていた。
 試聴会で招かれた客席では、何人かの気絶者が運ばれている。
 何も思い残すことはない。
 天性のソプラニスタ、ガブリエルは明らかに俺とは違う声をしていた。すべてのテクニックも持ち合わせていた。しかし、その声は明らかに女性のソプラノに近い声質でそれをよりパワーアップしたものだ。
 俺の声は、より太く男臭いソプラノ。芸術が狂気を好むのであれば、間違いなく俺だ。あとはこの目の前に追いつめた現代の芸術家たちが、どちらを好むかだ。
 どの目も俺を鋭く睨んでいる。
 楽屋へ帰る途中に舞台袖に待機していたガブリエルと視線が重なった。その目が濡れていたところも、昔のままだった。俺は微笑みを返した。追いすがるようなその視線を振り切って俺は舞台を降りた。
 ガブリエルの口から言わせなくてもいい。その涙で十分だった。
 そして十数分後、出場者二十人が舞台に並び、アレキサンダー役の発表を待つ。
 スポットライトがガブリエルに当たり、彼の顔が歓喜に満ちた瞬間、闇になった。
 まぶしい……。
 光は俺を包んでいた。
 そして、二度と動かなかった。


  *             *


 その二カ月後、十二月十五日、ウィーン国立歌劇場で『アレキサンダー大王』の公演が行われた。練習期間に、オペラ歌手と同じ舞台に立ち、同じ色の友情が芽生えた。ガブリエルはペルシャ帝国の雄ダイオレス3世の役となる。妃となるロクサネの役は、カルリーネを彷彿させるソプラノ歌手が演じた。
 きらびやかな衣装と、更に鮮やかな歌手達の声の競演に、観衆は沈黙と感嘆の熱気に包まれた。人間が最も感度の高くなる音が1000Hz以上ということを俺は知っている。
 英雄アレキサンダー大王への追悼を込めて、俺は声を発した。
 スポットライトを強く浴びるほど、闇と化す客席めがけ、俺はその中央に、ただ1つ咲き誇る花にめがけて歌いかけた。
 カルリーネに歌ったあの時と同じように。



 俺の腕に抱き上げられたまま、か細い息を首元に吹きかけるカルリーネ。
 その日、ウィーン国立劇場で最後のステージが終わった彼女に、もう生きる力は残されていなかった。
 アルプスの岩場を踏みしめ、見下ろすウィーンの街はあまりにも美しく二人を陶酔させてくれた。ウィーンの森と呼ばれる都市郊外の山脈は、秋の紅い色に染まっている。毛皮に包まれていてもカルリーネの体温が気になる。
 そして俺は彼女と約束したオンブラ・マイ・フを歌った。
 山に反射した声が数え切れぬ紅い葉をゆする。すべての生命の源、せめてもう少しの時間を彼女に与えてくれ……。
 そのとき彼女が微笑んだ。
 そして歌い終わった後、カルリーネは俺の肩に頬を当て呟いた。
「初めて、初めてよ……こんなに完ぺきなオンブラ・マイ・フを聴いたのは……」
 俺はその一言に満たされた。やっと、オペラの頂点に君臨する曲を制覇できた。
「あなたはあのときから芸術を突き詰める人だった。あなたに後悔してほしくなかったから私は……あの夜……あなたを抱いた」
「分かったていたよ。あの夜が今の俺を支えている。俺たちには、この道しかなかったんだよ。お前は俺にとって、最高の恋人だ。だからお前にこの声を聞かせたかった」
 初めて彼女に対し、お前と言った。
 カルリーネのサファイアの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「有り難う……大鷹。うれしい……」
 その笑顔は、散り際の桜のような、東洋を思わせるまろやかな輪郭を帯びて見えた。
 その頬を流れる真珠。それは俺が過ごした、ヤマトの山々とこのウィーンの森をダブらせていたからかもしれない。
 カルリーネはオンブラ・マイ・フを、か細い声で口ずさみ、そして微笑んだ。悲しいほど弱り果てた声だが、その鮮明な音程と、声の色は紛れもなく彼女のものだった。
「120点よ……覚えている。あの喫茶で話したこと」
「53点だった……」
 俺は思わず苦笑いした。
 あの時、遠くにあるものに精いっぱい手を伸ばして、それでも手が届かない悔しさに、ソプラノ歌手としての生命線に、常に刀を突きつけられた思いだった。
 その思いから解き放たれた代わりに、違う戦いが始まった。
 そんな俺の孤独を抱きしめてくれた七夜。それは二人の結晶。
「今の私は、幸せよ……究極の歌声を聴くことができたんだから……やっと巡り会えた。本物のあなたに……神の声に、やっと……」
「本物の俺……」
「愛している。本物のあなたを……もう一度聴かせて……」
 俺の凍り付いたはずの涙が、頬を潤すようにこぼれ落ちた。


Ombra mai fu      オンブラ・マイ・フ

Ombra mai fu      こんな木陰は 今まで決してなかった―
di vegetabile,   緑の木陰

cara ed amabile, 親しく、そして愛らしい、
soave piu         よりやさしい木陰は


 カルリーネはこの歌声に包まれたまま瞳を閉じ、俺の胸に堕ちた。
 身体の重みとは関係ない震えが、腕を襲った。俺は、その柔らかな身体を思いきり抱きしめた。
 いつまでも抱きしめていたい、離す事が恐ろしい。俺はこれから一人で、この手に入れた声で戦わねばならないのか。ウィーンの森を何処までも歩き続け、落ち葉は俺とカルリーネを包んだ。
 ついにカルリーネの重みで片膝は地に屈し、落ち葉の道に崩れ落ちた。
 微笑みを浮かべたままのカルリーネ。
 柔らかな秋の日差しに映しだされた笑顔はいつまでも色あせない。その笑顔を胸に抱きしめ、俺は嗚咽した。
 カルリーネはウィーンの大地に眠ったのではない。俺の胸の中に眠ったんだ……。だからいつでも会える。
 そして俺は、終わること無きこの道を、歩き続ける。


  *             *


 俺は今、アートサイダーのヴォーカルとしてワールドツアーに乗り込む。必ず来たるオーディオキラー起動の日。
 テーブルの上にはカラになったボトルとクラッシュアイスの山が溶けかけ、小さな氷山のように細い朝陽を弾いて光っている。突き刺したアイスピックが溶けた氷と共に崩れてガラス容器の縁にカツンと当たった。
 ソファに仰向けに眠り続けるスコット。
 氷が溶け、水浸しになったロックグラスを持ち、ウイスキーの香りが微かに残る水を飲み干すと、俺は立ち上がった。
 シャワー室前のひび割れた鏡、毛皮のコートを脱ぎ捨てたら、割れていない部分が俺の姿を映し出す。ほのかな温かい空気が背中を包む。カルリーネが背中から抱き付いた瞬間だった。
「愛している。本物のあなたを……」
 まるで浮遊霊のようにカルリーネは幻像として見える。俺の目が彼女を見ているのか、彼女が、現世に芸術への未練を断ち切れずにいるのか……。

 何かを得るためには、何かを失うこともある。だからこの体も本物の俺なのかもしれない。黒のつなぎの革ジャンを身にまとい、ヘソのジッパを首元まで上げた。
 戦う準備はできた。
「起きろ、スコット」
 形良く剃り上がって禿げた頭を平手で叩くと、スコットはビクッと肩をすくめて左右を見回した。
「なんだ、もう朝か……お前、昨日はちゃんと寝たか」
「ああ、久しぶりにいい夢を見たよ」
 革のベルトに、ヤマト刀を差した。ドアを開けた瞬間、風が入り込む。
 俺は、俺の居場所を求めて世界の風をさまよう。ステージをさまよう。
 カルリーネが教えてくれた。
 本物はただ一つしかない。
 そして神の声を手に入れた今こそが、本物の俺なんだ……。

 だから俺は、歌い続ける。




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