オ ー デ ィ オ キ ラ ー
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 第一部 蒼き炎 〜キアヌ・クルーガー編

 第四章 ロシアの皇帝



「何だこりゃあ……」
 そんな言葉が口からこぼれたのも無理はない。

 ホテルに届けられた荷物はベースギター。
 部屋の中央に立てられた黒いベース。スコットが見とれている存在感十分のソイツは、呆れるほど弦が太いのだ。
「おいおい、出来損ないかよこのベース」
「オシャレだって言って欲しかったぜ。こいつは低音が通常の倍出るベースだ」
 興味難文、そのネックを握って持ち上げると、心地よくズシリと腕に来る重さにオレは自然とストラップを肩に掛けていた。
 スコットが弾いてみろよと挑発しているようにさえ見えた。

「ギターを弾けるヤツは基本ベースは弾ける。その逆は言えないがな」

「ああ、確かに定説だな」
「弾いてやろうか。極上の甘い低音を」
 オレは一番下の弦を弾いて……  ん……固い。
 思い切り力を込めて、やっと指が弦を弾いた。弦の揺れが悪く、小さい音がブーンと小さく部屋に響いて消えた。
「どうした。ベースの弾けないギタリストはいないんじゃねえのか」
「ケッ、アンタホントに性格悪いぜ。こんな弦の固いベースは初めてでな。ぶっ壊してやろうか」
 オレも冗談でベースを振り上げてやった。
「バカ野郎、こいつはAudiokillar専用のエレキベースだ!」

 あのベースに始まり、ワクワクする一日が動き出した。


「ロシア人に、レナード人を好きな奴なんていないダロウぅ」
 アドルフがニコニコ、ピーナツをかじりながら呟いた。
「レナード人にも、ロシア人を好きな奴なんていないんじゃないのか」
 スコットまでもがそんな事を言う。

 相変わらずカチカチとノートパソコンを打ちながら。
 国籍が違う奴らが集るとと良くこんなジョークが出るが、そんな言葉が妙に心地いい。
 それも、アドルフを味方に付けてからだ。
「好きなんだな」
「何がダ?」
「ピーナツさ」
「ああ、セネガルぅの味がする。まさかオスカル国王がロシアのホテルまで贈ってくれるぅとは 思わなかった。国で買いだめしてはいたんだがナ」

 中世のお城をそのまま再現して作られたホテルは、部屋もゆったりと大きく、窓を開けるとクレムリン宮殿が見える。空は、意外なほどに青い。薄曇りを想像していたんだが。

 繊細さとダイナミックさを兼ね備えたモスクワの街並み。
 鋭利な屋根の建物は、雪下ろしの手間を省くためのものだろうがデザイン的にもロックだ。はるか遠くに見える赤の広場からは、軍隊がアリの大群のようにゆっくりと行進してくる。背の高い軍隊アリか。
「ロシア軍のブラスバンドだ。多分あの中に混じっている、行くぞ」
 スコットがノートパソコンを畳むやバッグにしまい込み、グレーのコートを肩に引っ掛けながらドアを開け腕を振り下ろした。

「今度のメンバーは軍人かい…… まさかこんなに早く会えるとは思わなかったぜ」
「おいおい、ちょっと待てよ、このホテルから出るぅのカ? アフリカ育ちのワタシには、とても耐えられないヨ」
 アドルフは黒い毛皮のパーカーを頭にかぶり、肩をすくめて歩き出す。
 オレは黒革のエルメスコートに袖を通し、スコットに置いていかれないようにアドルフに来い来いと片手で合図しながら走った。

 部屋を飛び出した瞬間、体が宙に浮いた。
「シマッタ!」
 転げ落ちていく階段。体を丸め階段の角をすべり落ちる。ぶつかる頭、腰、我慢だ。
 背中を床に打ち付けた。痺れに固まったまま目を開けた。

「バカヤロウ、全くお前はドジだなぁ」
 見上げた天井に描かれている壁画がしゃべった。目をこらしてみるとスコットの顔だ。
 彼に差しのべられた手をつかみ、よろめきながら起き上がる。ドアを開けてすぐ目の前は階段ということを忘れていた。
「派手に滑り落ちたなあ。でもお前のコート、傷ひとつ付いていないぜ。ブランドものか」
 母に買ってもらったエルメスコート。

 つい二年前までは地味だと言っていたが、今ではそのシックな良さがわかる。オレは、オシャレにはお金は使わないと言った時、母は「だから一生使えるエルメスにしたのよ」と言った。だから父もエルメスを着ていたんだ。
 ふとしたアクシデントから、 母の優しさを思い出した一瞬。

「さあ行くぞ」

 想い出を遮断してスコットは走り出す。三人は、冬の押し迫るモスクワの街へ出た。
「彼は軍人なのかい?」
「元軍人、そして総合格闘技の世界チャンピオンだ」
「まさか……ダルコ・ヴォリスキー!?」
「そうだ、次のタイトル防衛戦で彼は引退する」
「どうして?」

「それはあいつが、神の領域に達したからだ」

「神の領域に……」

 三五歳のスコットだがその足は速く、本気で走らないとついていくことさえできない。 ふと後ろを振り向けば背中を丸めたダンゴ虫がパーカーから目だけを出してついてきている。 あの誇り高きグリオも、大自然の威厳に満ちたモスクワの寒さには、為す術もないようだ。その丸まった姿と幼稚園児のような歩き方が、かわいく見えておかしくなる。
「おい、早く行くぞ!」
 スコットの声に引っ張られて、オレはダンゴ虫に背を向け走った。
「お前ら何グズグズしてるんだ、寒いのか?  おいアドルフ、パーカーをかぶるなんて十年早い。俺ぐらい頭が薄くなってからだ!」
 夢中で走るスコットも、子供みたいだ。 おもちゃを目の前にした子供みたいにオレたちはロックにずっと生きていくんだ。

 パレードの吹奏楽部の音がどんどん大きくなる。
 アンサンブルも、近づいてくるとバンドとは違ったド迫力がある。
 ブラスバンドでは皆太鼓を下腹に担いでストラップを肩にかける。行進曲は、スネアをローリングすることが多い。早速アドルフのジェスチャーが始まった。
「あそこだ、あそこでチューバを吹いている!」
 スコットを見て、片手を上げた涼しい目をしたロシア人がいた。
 殺気に満ちた目という感じではない、とても穏やかな目だ。ブリキ色に光る髪、北欧人らしく、鼻が高くて長い。テレビで見るよりもいい男だ。
「彼がダルぅコだよナ?」
「そうだ、ボランティアで参加しているのさ。最近はなかなかメンバーが集まらずOBに頼ることが多いとバンドマスターが言っていたよ」
「いろんなところに知り合いがいるんだな」
 スコットの交友の広さには、関心を通り越して呆れるくらいだ。
 総合格闘技ブームで、オレもつい最近までテレビで見ていた。そういえば、モルジブで人生の転機を迎えアフリカまで旅をして今ロシア、もう半年以上テレビからは遠ざかっていた。その間にも彼は連勝を続け、そして、格闘家として全盛期を迎えるという時期に現役を引退するという……何故だ。

 タンタタタンタタ、タンタン  単調なリズムが繰り返される。

「パレードと一緒に、モスクワの街を見物するか」
 スコットの歩調が、ようやくスローなロックに戻った。太鼓を叩く手振りで歩いていくアドルフに聞いてみた。
「スネアの音を聞いていると、体がうずくんだろ」
「いや、動いているぅと少しは体も温まる。 もっと派手に動きたいくぅらいダ」
 その様子を見ながらスコットが言った。
「今夜は練習スタジオでも借りるか。早速レンタルしておくよ」
 パレードが終わってダルコは、ブラスバンドのメンバーたちに手を振りながら小走りで俺たちのところに駆けつけてくれた。

「やあ、ダルコ、久しぶりだ」
 スコットとダルコは握手している。
「やあ、ついにこの日が来たんだな」
 ダルコは英語で話してくれた。これから俺たちバンドメンバーの標準語は英語になりそうだ。二人は知り合いのような握手をしている。ダルコの目が俺たちの方を見て、潤んでいるように静かに光った。
 オレは181センチある。それでもハッキリ分かるほど背は高い。
 体つきは全然違う。肩幅、胸板、腕回り、全てのラインがより太い。
「私が君たちのバンドに入ることになるダルコだ。よろしく頼むよ。 但し、三日後の試合で生きていたらの話だが」
 さっそく飛び出したクールなジョークにアドルフとスコットが笑った。
「オレはあなたのベース演奏を聴かないと納得できない」
 その言葉を待っていたように、アドルフがニヤリと笑った。
「ほらほら来た、噛みつぅき小僧のガブぅリが」
 ダルコは腕組みして、首を二回縦に振って微笑んだ。
「君の言っていることは正しい。確かにその通りだ。だが私は現役の格闘家でもある。
 三日後の試合まではベースを弾くことはできない。 私のオーディションはその後で、いいかな」
「勿論、あともうひとつ、お願いがあるんだけどさ」
 三人の視線がオレに集まったて言いにくくなった。でも言うしかない。
「サインいいっすか! オレ、実は大ファンなんだ」
 ダルコは渡した色紙に丁寧にサインを描くと握手をしてくれた。
 目を合わせた瞬間、大きく一息吸って深く息を吐き出し、微笑んで 片手を振ってさよならを告げた。軍隊のパレードへと戻るダルコ。軍人仲間達が俺達を見つめダルコに説明を求めている。彼らの目つきは皆鋭い。
 そりゃあそうだよな。レナード兵を父と一緒に見た事があった。
 同じ目つきだ。いざというときは国のために命を捨てて戦う。その思いは同じだ。

 ただ、ダルコの目は違った。

 信じられないほどナチュラルな優しい、そして涼しい、 一緒にいると落ち着くような、そんな気がした。雲の上の人じゃあなかった。


  *             *


 その夜は、久しぶりのスタジオ練習で体を温めた。
 パーカーを投げ捨てるとアドルフは、待ってましたとばかりにドラムセット中央の椅子に座った。バスドラが二つ付いた特別な形のツインペダルだ。
「さあ、変幻自在のリズムぅを見せてやろうぅか」

 いきなりドラムインストが始った。
 技術を魅せつけるタムの連打、そしてバスドラのツインペダル。 黒い肌にこぼれる白い歯が余裕の笑みを証明する。
「アフリカ音楽ぅの全てのリズムを叩いてもいいが、それじゃ時間が足りナイ。お前が歌っていたあの曲ぅのアレンジをこの旅行で完成させようぅじゃないか」
「OK! オレたちのデビューアルバムだ!」
 オレがギター演奏を始めると、完成されたリズムでアドルフのドラムからハイハットのチッチッという渋い音が入ってきた。今までかじり聴いたどんなロックとも違うリズム。 それをいとも簡単にやってみせるアドルフ。

「おい、メロディーがもたつぅいているぅぞ」

 アドルフが鋭い目でギロリと睨んだ。あれだけ完ぺきなドラム演奏をしながら、なおかつオレの演奏に耳を傾ける余裕があるのだ。ヤバイ奴だ。
「すまん、もう一度、最初からだ」
 アドルフはドラムを自在に操る。彼が叩くドラムは、どんなタムでも神が舞い降りてくるような神秘的、かつ幻想的な雰囲気を醸し出す。ポテンシャルの高さもさることながら、やはり黒人にしかないリズム感覚、才能の片鱗を俺は見た。
 俺だって負けられない。あのセネガルでの対決以来の熱い夜だった。

 練習を始めて既に、四時間が経っていた。
「どうやら貸し切りの時間が終わったようだ。 今から街に出てメシを食いに行くか」
 スコットが言った。
「予算は大丈夫なのかい。コンビニで済ませた方が……」
「心配するなキアヌ。モスクワの街を見ておけ。街を眺めるだけでも十分音楽センスは磨かれるものだ。常に脳を刺激しろ。旨いものも食いたいだろう。今日は、俺のポケットマネーでおごりだ」
「流石はマネジャーだ!」


 そういえば久しぶりに夜の街を歩く。
 確かに、昼に見たときとは全然、雰囲気が違う。
 街灯の形が、微妙に故郷のものとは違う。
 スコットの言う通りだ。 ちょっとした夜の散歩でも、彼女といるわけでもないのに、 ロマンティックな気分になる。

 そう言えば……
 キャサリンはどうしているだろうか。

 故郷を遠く離れると、やけに人が恋しくなる時がある。
 そして、オレを待っている人がいるということがノスタルジーを燃やす。
 楽器が立ち並ぶショーウィンドウよりも、隣のレディースコートを かけているファッション店に目がいってしまう。
 そしてクリスマスツリー、去年はキャサリンと一緒だった。
 深層心理の奥で、少しずつ、両親の死を受けとめられていくと同時に、彼女への愛も蘇ってきているのだろうか。オレは彼女から逃げてしまった。自分の不器用さと、弱さを隠れ蓑にして。
 今頃は、新しい彼氏ができているかもしれない。
 そう思うと、いてもたってもいられなくなる。
 男って身勝手なものだ……。
 ロシアのマネキン人形は肌が白く背も高い。その中に、一体だけ小麦色の少女がいた。
 キャサリン……  おまえも冬になると、あの小麦色からこの白いシルクの肌に変っていたよな……。
 裸にして抱きしめたい。あの際どいビキニも オレへのアプローチだったのに……。
 あのビキニをむしり取って、その胸に頬を埋めたい。
 オレのエロスはショーウィンドウを滑る手のように、ガラス越しに遙か遠いキャサリンの肉体を愛撫していた。

”オーベイビー、濡れた唇はレッドファイアー……
 黒いその瞳は、俺を狂わすブラックファイヤー“

 ブラックファイヤーが耳に鳴り止まない。
 収まらない、キャサリンの全てが俺を狂わす。

「おいどうした、キアヌ」
 スコットの声だ。
 そしてオレは記憶の世界から、現在に呼び戻された。
 気がつけば、数十メートル先をアドルフがゆっくり戻ってきている。
「そんなところに立ち止まりやがって。故郷ぅに残した女でも思い出したのか。スケベな事でも考えていたんだろうぅ」
「おかげでこっちは、胸がギリギリ痛いよ……スコットも無責任なことをする」
「何だ俺のせいか? もっと苦しめ。きっと向こうも同じぐらい…… いや、お前以上に苦しんでいるかもしれないぜ」
 夕闇迫る街角。振り向けばスコットの鋭い目と顔の半分、頭の薄くなったソリの部分までが街灯の光で青白く浮き立っている。
 オレはもうすぐ十九歳、アドルフは二十五歳。
 精神的にも、技術的にも、自分は一番未熟なんだ。スコットもアドルフも既に駆け抜けた時期を、今歩いている。 そして二人とも、オレのギターセンス、作曲センスに一目置いて バンドを組むことを決意してくれた。
 そして同じ夢の元、こうして一緒に旅をしている。こんなありふれ た二度と帰ってこない瞬間と二人の存在が貴重に思えた。

 キャサリン、まだオレは、還るわけにはいかない……。
 ブラックファイヤーを、この新しいメンバーでお前に聴かせるため。

「行こうか、あそこのレストランがおいしそうだ」
 オレは右手で来いよという合図をしてレストランに走った。


 レストランの中は、シックなブラウン。どこかで見たことがあるような、木の彫刻が壁や柱に彫り込まれ、 クラシックな雰囲気に統一している。家族連れや恋人同士が多い中、むさ苦しい男三人というのも、まあ 渋くていいものだ。
 スコットのロシア料理の説明も、あまり聞かずにオレとアドルフは肉やスープをがっついた。やれやれと背もたれに体を預けるスコットも、盛り皿の肉が減り始めて、あわてて肉を取り食い始める。

「ラリー・グラハムというベーシストを知っているか」
「バカにしないでくれよ、スラップ奏法を編み出した人だろう。まあこれについては、諸説あるけれどさ。世界中いろんなところで 自然に生まれたってのが正解じゃねえのか」 「ほう、ロックの歴史も、ちっとは勉強しているんだな。そのスラップ奏法をよお、あの最悪なベースで、 五本の指で出来るってなると、ちっとは驚くか」
「あれで……不可能だろ!」
 自分の右手で、一本一本の指に力を込めてみたが、どうしても五本の指であの最悪なベースでスラップを引く感触がつかめなかった。

 特に……小指でどうやって……。

「不可能を可能にするのがあの男さ。 現在95億分の1の男と言われている」
「95億ぅ分の1?」
「人類史上最強の男という比喩だ。チケットを三枚もらっている。 試合は明後日だ」
 スコットが差し出したそのチケットを胸にしまった。アドルフも慎重に、貴重なものを受け取るように、そのチケットを 手にして言った。
「ワタシは演奏する事によって、神と一体化出来るぅ。アフリカのタムに限らず、世界中のタムがワタシと神や精霊を結び付けてクレル。だがあの男は、その体自体に神が乗り移っているよう な……そんな気がしたヨ。初めて目を見たときにな」
 神が乗移っているか……
 確かに、そんな目だったよ、ダルコ。


 *             *


 その翌日、一行はダルコのジム『ベルクート』へ行った。
 それは繁華街中央のレンガで出来た建物。
 灰色の鉄の扉を開けたら、中も灰色でもっと殺風景だった。ジムのオーナーらしき人物が大声で片手を上げて歩いてくる。
「ケビン、ケビン!」
 ハゲ頭で赤のトレーナーを着ている。その体型は筋肉質なヤマトの力士を連想させた。足取りは早く、身の重たさを感じさせない。
 スコットと肩を叩き合い懐かしそうに話している。
 ロシア語はサッパリ分からないが、男はオレたちを気遣ってか、 指さしてスコットに説明を求めているようだ。スコットと彼の話が数分で終わり、やっと説明が来た。
「命の恩人だ。8年前、ロシア海軍は板きれにしがみついてさまよう私を救出してくれた。彼がオーナーのセルゲイ・ブブカだ」
「まさか、あんたが暗殺されたって事になってる…… あのレノン島襲撃事件かい」
「そうだ、セルゲイは海軍最後の仕事で命を助ける事が出来て、逆に助けた私に有り難うって言ってくれたよ。軍隊を出た後はジムを開いた。
 ダルコは陸軍最強戦士でな。コマンドサンボの達人でもある。二人で世界最強を極めようって総合格闘技にダルコを引き抜いた そうだ。まあそういう事だ」
 オレはダルコの練習を見たくて脚が速まった。
 トレーニングマシンがない。五人の選手たちは、皆体を軽くほぐしているだけだ。
 レナード流の機械を使って筋肉をつけるやり方しか知らないオレには意外すぎる光景だった。そしてダルコはどこにもいない。セルゲイに聞いたらロードワークに森へ出て行ったという。
 彼の後を追ってジムを出た。相変わらずダンゴ虫のような格好で一緒にダルコを探して追いかけ てくるアドルフが、木枯らしに負けていつの間にか消えた。
 レンガ色の街を駆け抜けて森へ出た。枯れ葉が敷き詰められた大地、広い間隔で立っている木はどれもグレーで森なのに殺風景だ。
 しかし、見慣れてくると味がある。
 この灰色の柵の向こうに、 赤いジャージ姿で拳を振るダルコを見つけた。
 それはまるで野生のシカにも、気を殺したトラにも見える。 静かな表情で、落ち葉を殴っている。やはり、殺気はない。ダルコは試合前だ。邪魔しちゃ悪いか、とオレの足が引いた瞬間、 彼が振り向いた。

「やあ、キアヌじゃないか」

 昨日、初めて会ったばかりなのに友達みたいな感覚で片手を挙げて声をかけるダルコ。いつ見ても彼の目は、静かで安心させる。
 彼との距離が近くなってくる程、総合格闘技の世界王者なんて、想像できなくなる。
 身体もスーパーヘビー級というほど威圧的に大きくはない。
 顔もいい男だし、気のいい兄貴的な体育会系という感じだ。

「やあ、昨日は招待券をありがとう、それからサインも」
 彼は静かにうなずいた。
 格闘家だというのにその目は、ギラギラしていない。
 むしろアドルフの方がそれに近い。一瞬、目をギラつかせたアドルフがトランクス姿でリングに立つ姿を想像してみた。ダルコと戦う姿が浮かんで変な独り笑いをしてしまう。
 それでもおだやかに見守るダルコに、あわてて取り繕った。
「いや、済まない。変な想像してしまってさ」
 オレの全ての行動を、包み込んでしまうダルコのクールな視線。
 その視線が、何かを伝えようとしているような、そんな気がしてならなかった。
「ダルコ、オレに何か、伝えようとしていることがあるんじゃないのか」
 ダルコのじっと穏やかだった目が、このとき初めてギラリと光った。

「昨日サインをして貰った後、あんたはオレの目を見ながら息を吸って止めた。人が何かを言いたくて止めるとき、よく息を吸い込んで一瞬止まるのさ」
「大したもんだ、キアヌ。君は格闘家としてもセンスがあるよ」
 あぜ道を肩を並べて歩いた。ダルコは腰にぶら下げたポットの蓋に紅茶を入れるとオレに差し出した。温かい紅茶はこの森を喫茶にした。
 ダルコはポットのまま飲んでいる。
「レナード政府が管理する機密書類が何者かの手によって盗まれた……知ってるか」
「ああ、『スパルタ兵の強奪』とまで言われたアレだろう?
 どうしてその話を……」
「スコットは何も話していないのか」
「ああ」
「私もそれがどういうものなのかは知らなかった。
 ただスコットはあの機密書類がレナード政府にわたると、世界は滅亡すると言っていた。キーワードはオーディオキラー、私はロシア政府の命令でその機密書類を盗むように命じられた。
 そして五人の部隊でホワイトルークに潜り込んだ」
「あんたが……まさか、機密書類を盗み出したのは……アンタだったのか!」
「そうだ。機密書類はもちろん紙ではない。完璧なまでにコピーガードされた一個のメモリチップだ。パスワードの読み取りも出来ない。
その、パスワードを知っているのは世界にただ一人」
「ケビン・レノンだな」
「そうだ。こんな1センチ角のチップのために、四人の仲間が死んだ」
 ダルコは親指と中指でメモリチップを挟むふりをして見せた。
「じゃあ、そのチップは今ロシア軍にあるのかい」
「いいや、スコットが持っているよ」
「ほう……じゃあ、あんたはロシア軍を裏切ったのか」
「そうだ。レナードが持てば世界が崩壊する。つまりはロシアの手に渡っても、同じことだろう」
「……確かに、考えてみれば……どの国が持っても同じだな。
なぜこの事をオレに……」
「君はスコットの味方だからだ。澄んだ目をしている。私が格闘家になったのは、人を殺すのが嫌になったからだよ。
 私は四人の仲間を失った。チップは仲間と共に撃たれて粉々になったと私は嘘を言った。そしてスコットに返す前に確認したよ。
 こいつが人類を破壊する兵器なら、私はこの場で踏み砕くってな。
あいつは何て言ったと思う」

「四人の命をムダにしない……?」

「その通りだ。君は頭もいいな。あの男は冷徹なぐらい、合理主義者だ。私は逆上したよ。四人の友を失った怒りがな。何をどうムダにしないんだってな。彼があんなものを発明しなければ、友も死なずにすんだ。
 しかもチップの内容は全て、彼の頭の中に暗記されていた。
 じゃその頭も破壊してやろうと言ったよ。
 この両手で、あの男の頭を挟んでだ」
 ダルコは目の前に浮かぶ幻像の頭をはさんで見せた。それが誰かは言うまでもない。
「スコットはこう言った……顔色一つ変えずにな。
 四人の命ですんで良かった、俺が死んでも5人、戦争が起きれば、何十万、何百万の命が失われるってな」
 そしてダルコは、深いため息をついた。

 スコット、いやケビン・レノン……やっぱり凄い奴だ。
 あいつの冷徹の奥には、このオレには触れることのできない何かがある……。

 愛……、いやそんなもんじゃねえ。

 ダルコは大空を見上げた。
 何を見ているんだろうか。オレも空を見上げてみた。
「正しいのは空だけだ……。人間がどんな悪行をしても、ちゃんと上から見ている」
 ダルコの言葉は、大空に、世界中の戦場を幻像として見せた。

「あのチップを守ったのは、四人の使命だったんだよ。やっとそう思えるようになった。
 私たちは軍人だ。だから戦場で命を落としても仕方ない。だが民間人は銃も防具も持っていない。
 仲間を失った私の理不尽な思いよりもはるかに大きな傷跡がある。この世界中にな。
 それを言いたかったんだよ。ケビン・レノンはな」

 ホワイトルーク襲撃事件、僅か5人の兵士が忍び込み、レナード兵200人を殺し国家機密書類を盗んだという事件だった。当時まだ12歳だったオレは、5人で200人をやっつけた、凄い凄いと大はしゃぎでニュースを見た。
 あの人物が、彼だった……。

「あんたの格闘技は、確かに他の選手と違って実戦的だった。
251連勝、無敗。不滅の大記録だよ。話は変わるけどさ、本当に辞めるのか」
「ああ、やめるよ。最強を極めるとはどういう事だか分かるか」
「最強を極める……」
「軍を出た私はとにかく最強を極めたかった。自由が許されない軍隊では時に理不尽な命令も聞かねばならない。そして上官の命令は絶対服従だ。私はそんな世界がいやになって下克上のリングで自分を試したくなってね。軍隊から総合格闘技へ行く奴はロシア軍には多いのもそういう理屈だ。
 だがチャンピオンになってから最強を極めるという事の本当の意味を知った」
 オレはもう、ただ彼の言葉を待つしかなかった。
 予測も出来ない。
 戦場を生き抜いた男、理屈抜きでそれだけでも、男として崇拝する価値がある。
 しかし彼は少しも驕り高ぶっていない。本物とはそういうものだ。
 そんな彼でさえ、まだ最強を極めようとするのか……その答えは、一体何なんだ。

「本当に強かったから、それ以上強くなる必要はないんだよ。
 そして、本当の強さとは、魂からくるものなんだ……
 音楽はたった五分聴くだけで人の魂を動かす。
 私はプログレッシブロックが好きでね。
 新たな境地へチャレンジしたくなったんだよ。
 これ以上このベルトと地位を守ることに、意義を感じない。
 そしてもうひとつの理由は、私の4人の戦友が、命を捨てて守ったものが一体何だったのか。オーディオキラーの設計図……その威力を見たくてね。
 そういうところだけは、未だに軍人が抜け切れていない」

「本当は、それが一番なんだろう」

 ダルコは笑顔で空を見上げた。
 そして何も言わずに柔軟体操を始めた。

 空っぽの心で、ただその光景を見守った。
 腕立て伏せ、背筋、腹筋、機械は一切使わない。
 パンチ力が何キロだとか、ペンチプレス何キロ持ち上げるとか、いくら数字だけ良くても当たらなければ意味がない。
 そして人は数字にしないと強さが分かりにくい。
 だがそんなものは、何の意味もないんだ。
 再び、枯れ葉を殴り始めたダルコ。

 訳もなく、闘争心に駆り立てられたオレは思い切りタックルした。
 ダルコの腹に肩がぶつかった瞬間、オレの体はフワリと浮いた。
 空と地面がひっくり帰った瞬間、落ち葉のじゅうたんに背中を打ち付けた。

「来い」

 ダルコの中指に挑発されて、再びタックルした。
 今度は両手で弾き飛ばされ、木に背中を打った。
 闘争本能に火がついた。
 パンチを出せとでもいうように、拳を突き出して見せるダルコに、オレはストレートを打ったが軽く交わされた。
 何発振っても当たらない。身体中が熱くなり、寒さは吹っ飛んだ。
 ケンカで一度も負けたことのないオレがパンチを掠らせる事も出来ない。
 ダルコの目はスパーリングを楽しむように、笑っている。
 オレもパンチをふるいながら、自然と笑顔が出てきた。
 パンチが当たった瞬間に、彼のさらなる強さを見た。
 腹が石のように硬いのだ。全然効いていない。
 タフな方だが、三十分もするとオレの息が上がってしまった。
 渾身の力を込めて振ったパンチが空を切り、そのままバランスを崩して地面に倒れた。
 大空が雲でくすんでいるのが目に優しくて、いつまでも見つめていたくなる。

 そしてこの時、心の奥から耳に曲が流れてきた。

 ダルコは再び、落ち葉を拳で殴り始める。枯れ葉はパチリパチリと弾かれて飛ぶ。地面がら見上げると、その姿がとても偉大に見えた。
 やっぱり、正に雲の上の人。流れてきた曲は鳴り止まない。

 明日は試合だというのに。







 耳をつんざくゴングがなった。
 金網に包囲され、目の前にそびえる四角いリングはカクテルライトの光を反射して白くかすむ。恐竜のような大巨人がダルコを押しつぶしにきた。黒い筋肉が鋼のようにメタルな光をはじく。あの大きなダルコさえもが子供のように小さく見える。
「ダルコ!」
 オレは叫んだ。
 この大観衆の中でも、この声は彼に届いた筈だ。黒い殺意の250センチ、300キロの筋肉が上からパンチを振り下ろす。
 オレは息が止まりそうになった。まるで自分が殴られそうな恐怖をも感じる。
 1ファンから友達に変わった瞬間、オレは彼を冷静に見られなくなっていた。彼と接していなければ、いつも通り、血をたぎらせ胸を躍らせながらこの試合を見ているだろう。
 知れば知るほど、彼はまるで心理学者のようにオレの心をいやしてくれた。
 あんなに優しい男がリングで殺し合いのような戦いを出来るのか。
 彼の目は何処かもの悲しさがあふれていた。

 おびえる子供のように、両手を顔の前にガードして背中を丸め、埋くまっている。
 いつもの戦い方じゃない。
 オズマは大きくパンチを振り上げる。ガードしていてもダルコの姿勢が崩れ、そしてストレートにダルコの身体が吹っ飛んだ。
 血しぶきが花火のように飛んでオレの頬にかかった。
 すでに額が切れ、まぶたがはれ上がっている。
「オズマは同じ負け知らずだ。あのパンチで三人殺している。パンチ力は500キロ、ベンチプレス700キロ、あれは人間じゃねえ……やばいぜ」
 スコットがため息を吐く。
「やめさせろ! あれはバケモノだ!ダルうコが殺されてしまううぞ!」
 総合格闘技を見た事のないアドルフがオレとスコットを交互に見た。
「ダルコの武器はゴールドフィンガーだ、あのベースが弾けるならな!」
 オレは拳を握りしめて答えた。
 そのとき、ダルコの右腕がオズマの右手首を掴んだ。
「やった、これからがダルコの戦いだ!」
 ダルコが腕を肩に担ぎ投げようとしているが、相手が大きすぎて背負い投げにならない。アドルフはオレとリングを交互に見た。

 格闘を見るとき、人は信じる。
 応援している男が勝つことを……。みんな同じだ。
 信じたものを裏切らない、それが神だ。
 あんたを信じさせてくれ……

 オレは祈った。

 激しく動き回っていたオズマが腕を固定されて不自然な体勢で突っ立っている。余った片手でダルコの頭を殴るオズマだがあの体勢では強いパンチは打てない。動きが止まった。その握力で、腕がしびれているのだ。

「キアヌう! ダルコは大丈夫うか」
「腕だ腕だ! よく見ろアドルフ、窮地に立たされてるのはオズマだ、オズマは腕を決められているんだよ、我慢してると腕を折られかねないぞ!」
「ナニ?!」
 そして隙をついたダルコが、脚をかけて投げ倒した。

「柔道技だ、ダルコはどんな戦い方もできるんだ!」

 ダルコファンが多い地元の声援は、最高潮に達した。
「やった! パウンドだ! 殴れ! 殴れ! 殴れ!」

 巨人の上に馬乗りになったダルコが、一方的に殴りまくり、オズマの腕が泥酔したように泳いでいる。レフリーがあわてて止めに入った。
 試合終了のゴングが打ち鳴らされ、ダルコの腕が高々とレフェリーによって上げられた。顔は血だらけだが、その表情は、いつもの優しい顔に戻っている。
「ス、スゥゴい……」
 アドルフが首を振りながら呟いた。
 四角い金網が地面にスライドし、その姿は露わになった。
 大観衆から沸き起こるダルココール。
 オレは一緒に、拳を天に突き上げた。両手を上げて歓声を抱きしめるダルコ。
 この観衆の一人一人が、彼の腕の中にいた。
 オレもその中の一人。

 勿体ねえよ……。
 本当に……引退するのかよ……。
 あんたは、やめちゃいけないよ……。

 やっぱりダルコは、雲の上の人だった。真っ暗な地下のスタジオに入った。その電気をつける前にポケットの携帯からEメールの着信音が響いた。
「ちょっと待って、ニューヨークのアダムからだ」
 暗やみの中でも、白く発光する液晶画面を見た瞬間……オレは血の気が引いた。

「グレードアップがバンド名をマティーニに変えてデビューしたって。アルバムがレナード合衆国チャートで59位……。曲名はブラックファイヤー」
「ほう、そいつはラッキーニュースだな。確かお前の書いた曲じゃなかったか。どうした?お前うれしくないのか」
 スコットが聞いた。

「バカ言え! オレの書いた曲なのに何の相談もナシかよ……!
 オレの曲だ!オレとキャサリンの……!」

 殴ろうとしても、殴る相手も目の前にいない拳は、オレの膝で血が滲むほど握り締められた。

「大丈夫、ニューヨークに帰ったら我々もデビューするんだ。また新しい曲を書けばいい。昔の曲はくれてやれ」

 ダルコはオレの肩をポンとたたいてベースギターを出した。慣れた手つきで、スタジオのアンプに、つないでいる。
 彼の言葉でさえ耳に入らず、心は嵐が吹きすさぶ。

「軍隊にいたころ、バンド部があってね。その頃からずっとバンドをやりたかった。親兄弟を助けるために軍隊を経て格闘家になったが、ずっとやりたかったのはバンドだ。もう26だよ。君は私よりも7つも若い。羨ましいよ」
 ダルコの言葉にオレの脳は、自分がどんなに恵まれているかを認識できたが、無念の怒りは収まらない。

 キャサリンが、どの歌より好きだと言ってくれた……
 だから、このメンバーでやりたかった。

 昔の曲なんてくれてやれ……簡単に言うなよ……。

 その時、ダルコはスコットの読んでいた新聞を取り上げた。
 ロシアでは英雄のダルコ・ヴォリスキー、その記事は、前日の彼の最後の試合を描いたものだ。国民的英雄、その生涯の成績が書かれている。

「いいか、キアヌ。こういうことだ」

 ダルコは、その記事をビリビリと破ってみせた。
 破いたものを重ねて破る、また重ねて破る。

 彼の栄光が、バラバラに破れていく。

 オレは思わずその紙切れを拾った。

 100連勝目の対戦相手……その試合をオレはテレビ見た。
 ダルコはとてもさわやかな顔をしている。
 彼の目に促されて、オレはその紙切れを、そっと空気の中に放した。
 風のないスタジオの中、紙切れは、真すぐ落ちた。

「ダルコ……」

「君が書いた曲がどういうものかは聴いたことはないが、この新しいメンバーにはマティーニほどその曲に対する思い入れはないよ。
あれはもうマティーニの曲だ。君は成長しているんだ、過去は捨てろ」

 ダルコの大きな風が、オレのコダワリを吹き飛ばした。
 彼の言葉だから飲み込めた。捨てることも大切だと。

 チャンピオンベルト。

 あの栄光を、ロックのために、意図も容易く捨てたダルコ。

 そしてオレは自分自身が、まだ昔のバンドに片脚を突っ込んでいた
ことに気付いた。あいつらが、売れようが売れまいが、オレには関係
ないんだ。
「……そうだな、アンタは、この日チャンピオンベルトを捨てると
いうのに……。頂点に上り詰めた男が頂点を捨てるっていうのに、
オレは小せえな」

「さすがダルコファンだな、いつになく素直だ。今度はみんなで、ロックバンドの頂点を目指そうぜ。まあこれから聴く、あんたの腕次第だがな。キアヌとアドルフが痺れるような音楽を、聴かせてくれよ」
 スコットが言った。
 早速エモバンドとあの最悪なベースを出してきた。苦笑いをさせる嫌なヤツだ。
 だがダルコは何も気にとめることもなく、さも自然にそれを腕に巻いている。
「ベースの低音、それは太い弦からくる。オーディオキラーを完璧なものにするには、この太い弦による振動が必要だった。こんなものを弾けるのはお前しかいないと思ってな」
 ダルコは笑ってオレのクラシックギターを取りストラップをかける。

「その前にちょっと弾かせてくれよ」
「おいおい、アンタはベース……」
 とオレが言うや否やダルコは「アルハンブラ宮殿の思い出」を見事に引いて見せながら楽しそうに体を揺らしている。しかもその曲はオレが苦手なやつだ。
 お株を奪われた……。
「ギターを弾ける奴に、ベースを弾けない奴はいない……定説逆転だなキアヌ」
 スコットもアドルフも、そしてオレも脱帽だ。
「相手が悪かった。参ったよ……」
 凄すぎるヤツを見ると、笑いが出てくる。
 もうその凄さに、一緒にはしゃぎたくなるくらいだ。お遊びは終わりだとでも言うようにギターを下ろすと、ついに、いきなり、ベースを弾き始めた。
 とても、ソフトな甘い雰囲気を醸し出している。
オレたち3人の耳は、その情感あふれる重低音に陶酔してしまった。
 あの太い弦が、ブルブル震えている。
 身体を振動させる重低音の中に三人は溶けた。
 と思いきや、いきなりバチッと鼓膜を弾く音が響いた。
 なんと、ベースをドラムがわりにリズムを刻んでいる。

 スラップだ!

 マジかよ……あの最悪な弦をバチバチ弾きまくる。
 ダルコの目が氷のナイフになってベースの弦が機関銃を乱射する。
戦場だ。彼は戦場をベースで演じている。
 スラップは最もエネルギーの大きい音量なので予めボリュームを落とさないとスピーカーが破損する。音の調節も、きめ細やかだ。
 スラップの連打。
 機関銃を表現したこの音作りは正に神業としか言いようがない。
 歌い出したダルコ。
 声が太い、低い。
 そして一気に、ジェットコースター並みに高音部まで持っていく。
 天を貫くようなハイトーン、それはオレよりも高い。

 巧い……巧すぎる。そして完成されている……。

 悲しみ、どしゃ降りの雨を、独自のスラップアルペジオで演じながら、泣き叫ぶような声を戦場の隅々まで、響かせた。

 5本の指を操ってベースの弦を殴る。
 再び彼のボーカルが入った。
 飛び散る血しぶき、兵士の絶叫、爆風、ちぎれ飛ぶ肉体……。
 彼は常に戦場の空を見ながら演奏している。
 どこか物悲しい、そんな目でリズムを取りながら、天にいる仲間達に、その歌声が届けとばかりに……。
 ベースを片手に、銃を捨て、全ての兵士に叫ぶダルコ。
 ベース一本で世界を見せてくれた、初めての男だった。
 その指に、神が舞い下りた瞬間、オレたち三人は黙ってじっと目の前に浮かぶ戦場を見つめていた。


「どうだい? ワタシのオーディションは合格かい、それとも不合格かい」
「恐れ入った、君はベーシストとしても、無敵だ」
 アドルフが感嘆しながら、拍手した。エモバンドなど気にも留めていない。
 昨日まで各競技をやっていた彼が、しかもあの最悪なベースでいきなりプロレベルなんて無理だ……と思いきや、その数値を見て我が目を疑った。

 637……!

 奇跡としか言いようがない。
 しかし、あの曲は確かに完成されていた。
 エモバンドは嘘をつかず、常に公正に数値を出している。
センスだけでこんなとてつもない数値を。
「ふざけるぅなよ……昨日ぅまで殴ぅり合っていた男がいきなりこれか?」
 スコットは、ニヤニヤ笑いながらただ拍手をしている。お枚も何か返してやれと、オレに目で合図している。
 いいぜ、ダルコ。
「今度はオレの番だな……。実は昨日あんたに、スパーリングをしてもらった時に作った曲があるんだ、聴いてくれ」
 オレはダルコと視線を合わせて頷くと、ギターを抱いて、あの日に書いた曲を、みんなに披露した。



 SKY

 はるか はるか
 遠い世界が ああ、血に染まる

 水は枯れ果て 人も消え失せ
 武器は 何処へゆく 
 誰を求めて 何のため

  SKY この世界に 神はいないだろう
  SKY 神がいるなら 俺は許さないだろう

   血に飢えた思想が 神を名乗りながら
   世界を壊す夜に 震える俺を救うのは
   君の微笑み

  SKY たとえ多くの人を救えないとしても
  SKY 君を誰にも触れさせはしない

  SKY この世界で 空が誰にも空のように
  SKY 俺は生きよう 神も信じない
      国も信じない 空だけを信じると




 ダルコの目には、あの4人の戦友の顔が浮かんでいたんではないだろうか。オレの手をガッシリ取ってくれた。

「いい曲だ。胸に響いたよ」
「光栄だな、95億分の1の男にそんなことを言ってもらえるなんて」
「よせよ、私だけじゃない、全ての命が95億分の1なんだ。
 そして95億分の1の曲、95億分の1の君だよ」
 ダルコはベースを静かに爪弾く。脚でリズムを取りながら。
「ダルコ……」
 少し大きい声に、スコットとアドルフもオレを見た。
「くれてやれ……いいことを教えてくれたよ。過去に書いた曲に縋り付いてちゃ前に進めない。ロックは得ると同時に捨てることも大切なんだよな……
 あんたなんか、ベルトを捨てたんだ」

「全てそうだよ。過去に縋り付いてちゃ新たな境地には進めない。いい曲だぜ、SKY。ベースアレンジは、私がやるよ」
 ダルコは口ずさみながら、新しく息吹を上げた曲を爪弾いた。
 心地いい、涙を誘う金属のアメのような響きが、耳を包んだ。




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